まえしまのブログ

死にゃあせん。©︎母上

「優しい人がいいかなあ。」「『優しい人』か。君は優しさについて本気で考えたことがあるか」「えっ」「優しいとはどういうことか、本気で、考えたことが、あるのかと聞いている」「えっえっ」

ゴールデンでウキウキパーリナイな5月が終わり、祝日のないじめじめとした6月がやってくる。皆様いかがお過ごしだろうか。久しぶりのブログだ。近況を報告しておくと、自分の好きなことを仕事にしたいと転職活動をして、無事転職が決まった。引っ越しが終わり、生活できるようになり、仕事をし始めて、ネット環境が整ってやっとブログが書けるようになった。大変だったが、無敵の好きを携えてここまでこれた。ようやくスタートラインに立てた。そんなこんなで一か月以上、思いついては書く時間がなく温めているネタがたくさんあるが、その中でも一番古いものからいこうと思う。メモ帳には、「優しさとはなんだろう」というタイトルをつけていたのだが、これでは普通すぎて誰も読んでくれないだろうと思った。せっかくの久しぶりのブログ、ぜひ読んでいただきたい。そこで、色々なとこからインスピレーションを得て、会話調のインパクトあるタイトルにしておいた。もう少し距離を詰めようという時の男性陣からの「どんなタイプが好きなの?」という問いに女性側が困りつつも典型的に答え、理系カチカチ頭の男(でもイケメン)に火がついて持論を展開しようとする場面だ。女性側はドン引きもしくはキョトンであろう。(すべて私の頭の中の妄想です。)

広辞苑で『優しい』という言葉を引けば、いくつも意味が出てくる。頭の良い人たちが綺麗にまとめた答えが出てくる。しかし、ここで考えることをやめたくはない。一つ前の記事でも書いているが、考えることが楽しい。楽しいから考える。そして私は考えたことを表現する一つの手段として、ブログという形を選択したまでだ。文章にしていると、どんどん新たな考えや言葉が出てきて、なんというか無敵になった気分になる。それがとても好きだ。だから私は文章で表現する。

ありがたいことに、私は優しいと言ってもらえることがある。親には「お前は優しすぎる」と言われる。そのあとに「優しいのになんで彼女できないんだろうね」と続くのだが、まあそれは今回はどうでもいい。いやあ、嬉しいことである。私は優しい人が好きだ。優しい人になりたい。私は基本的にめったに怒らないし、頭ごなしに他人を否定することはしない。どんな人にだって大事にしているものがあって、理解もなしに決めつけられるのは絶対に嫌だろうから。「自分がされて嫌なことは人にするな。」小さいころ親に教わったこの当たり前のような言葉が、私の優しさの源になっているように思う。人と接していて何か迷った時、分からなくなったときはいつも、この言葉に立ち返ってきたし、これからもそうするつもりでいる。

さて、こんな答えのなさそうなテーマで文章を書こうと思ったのにはあるきっかけがある。わがマブダチ(男)と二人で飲んだ時のことだ。彼とは久々に会って酒も進んだ。彼は積りに積もった話をしてくれた。嫌われるのも非難されるのも覚悟で、かなりぶっちゃけた話をしてくれた。それぐらいなんでも話せる間柄だ。私は優しいから、決して否定せず、「きっと何か理由があるんだろう。おれには分からない感情があるんだろう。」と思った。そんな風にコメントした。しかし彼はそれを聞いて、私にこう言ったのだ。「違うんだ、もっと怒っていい。叱ってくれ。」「それは優しさじゃない。不干渉っていうんだ。」「お前だから話したんだ。お前がどう思うか聞かせてくれ。」言われてはっとした。今は、彼に対しては、嫌われることを恐れて本当の自分の気持ちを隠すのは優しさではない。親しい間柄だからなおさらだ。そこでようやく、自分の考えを正直に伝えることができた。さすがわがマブダチである。優しさは、時に大きな勇気がいるのだ。

 

そこでひとつの疑問が生まれた。じゃあ、そもそも優しさとはなんだろうか。

 

なんとも、出口のない樹海に迷い込んだような気分になるテーマだ。まあ私はこういうことをよく一人で考えていて、それが好きなのでまったく気にならない。私が思うに、優しさにはいろいろな形がある。どんなことに優しいと感じるかは人それぞれで、誰に対してかはもちろん、タイミングやその時の気分や感情も大きく関わるだろう。どんな時に優しいと感じてきたか思い返してみながら、三つ考えてみた。

まず、勇気がいる優しさ。先にあげたマブダチとの例である。人間は変化を恐れる生き物だ。嫌われるのではないか、関係が変わってしまうのではないかと自分の気持ちを偽ってしまったり、本当の気持ちを隠してしまったりすることがある。それでいい時もある。相手との心理的な距離が遠い時や、深い関係ではない時は、すべてを正直に話す必要はない。しかし、付き合いが長くなるほど、相手のことを知っていくことができる。どんな言葉で、どんなタイミングで話せばいいのかわかってくる。そういう相手には、勇気を出して自分の本当の気持ちをストレートにぶつけていくのが優しさではないだろうか。

二つ目は態度で示す優しさ。これは逆に、さっき出てきた相手との心理的な距離が遠い時や、深い関係ではないときに感じる優しさだと思う。例を挙げるならば、丁寧な言葉遣い、笑顔、さりげない会釈、間や雰囲気など。ずっと付き合っていく人との初対面や、見ず知らずで二度と会わないような人と交わす会話。そんな場面でのちょっとした態度や立ち振る舞いで「あ、優しい人だな」と感じることがたまにある。

そして三つ目が何もしない優しさ。よく聞くが、実はこれが一番難しくてやっかいではないかと思う。何もしない人は無関心で不干渉だと感じる。普通なら。つまりこれは仲の良い間柄で多いのだろう。やっかいなのは、その人のことをよく知らない場合は、優しいと感じづらいということ。優しいから何もしない、言わない人が、「人見知り」や「コミュ障」とかいう言葉でくくられてしまう。無関心で不干渉だと決めつけられてしまう。なんということか。その人のことを知ろうともせず、言葉の持つ負のイメージで人を判断しないでほしい。そういう人たちはきっと人一倍周りの人たちのことを考えている。大体コミュ障ってなんやねんいい加減にせいドアホ!!!言葉で決めつけんな!!!言葉で逃げんな!!!心を見ろやぁ!!!・・・失礼、興奮してしまった。落ち着こう。まあまとめると、何もしない優しさと無関心・不干渉の違いは、相手をしっかりと見て考えているのか、自分のことばかり考えているのかだと思う。

三つすべてに共通するが、優しいというのは相手がいて初めて生まれる感情だ。他人の気持ちはその人がどれだけうまく言い表しても、態度で示しても主観的に感じることはできない。まあ、テレパシーが使えたり、脳を覗き込めるものが開発されたりすれば話は別だが。とにかく、人がなに考えてるかなんて、本当のところはわからない。そんな正体のしれない他人の気持ちを、推し量り、思いやる心の力。優しさの源はそこにある。そして本当の意味で優しい人は、自分の気持ちを隠すことはしても、決して偽ることはしない。時に相手や状況に合わせた言葉に言い換えて、自分の本当の気持ちを伝える。そんな風にして接してくれた時、私は優しいと感じる。優しさとは、相手を見て、感じて、考えること。そして自分の気持ちを偽らないこと。私はそう思う。

最後に、一つ主張したいことがある。私は、優しいと感じたらすぐお礼を言いたい。優しい人は決して「優しくしてやった」とか「私優しいでしょ」とか上からものを言わず、ただただしれっと優しい。自分が優しいことを自覚していない。もっと感謝されていい。せめて気づいてもらうべきだ。だから私は、優しいと感じたらお礼をしっかりしようと思う。「すいません」ではなく、素直に「ありがとう」と言っていきたい。優しい人は、謝ってもらいたいくて優しいのではない。優しい人はすいませんなんて謝られたら、謝罪なんてさせてしまって申し訳ないと思ってしまうかもしれない。そうすると謝罪の連鎖が起きてしまう。それは悲しい。悲しいのは嫌いだ。それよりも、感謝の連鎖をつくりたい。プラスの、ポジティブな感情を大事にしていきたい。