まえしまのブログ

いや、お恥ずかしい

英詞の和訳風に作詞した

僕が聞いてる音楽をバカにするな

構うなほっといてくれ

僕はこういうのが好きなんだ

 .

話す言葉や食べるもの

着てる服や好みの異性だって

だいたい似たようなもんだろう

大きなくくりじゃ同じだろう

 .

だからこうして一緒に居られる

だからこうして笑って居られる

 .

でもさ 最近気づいたんだ

 .

君とは違う どうやら違う

僕の好きな音楽は君とは違う

.

それでいいんだぜ最高だぜって

僕の好きな音楽は歌ってるぜ

君のはどうだい?

 .

 .

負の感情を口に出さないでくれ

黙ってどっかに行ってくれ

僕はそういうのだけは嫌なんだ

 .

うまくいかないことや辛いこと

不安や妬みや後悔も

 .

たいがい実体なんてないだろう

オバケみたいなもんだろう

 .

だからケラケラ笑っていよう

好きなことだけ考えていよう

 .

でもさ そんな簡単な話じゃないんだ

 .

やっぱり悩む 僕らは悩む

些細なことでバカみたいに悩む

.

それでいいんだぜ最高だぜって

僕の好きな音楽は歌ってるぜ

君のはどうだい?

そういうイケメンに、私はなりたい。

 

 雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ

 

白米と味噌汁と日本酒を愛し

 

また自然と、命あるものに感謝し

 

健全な精神を宿した健康な体で

 

爽やかさと男臭さを合わせ持ち

 

色気と優しさとユーモアと

 

決断力と行動力があり

 

さりげなく気が利いて

 

人をほめるのが上手く

 

褒められたら謙遜より先にお礼を言う

 

自分を否定するものから遠ざかろうともせず

 

かといってあえて戦おうともせず

 

自らの感情、本能、理性の操り方を知り

 

他人の心情を理解する限界を悟りそれでもなお

 

理解したいと切に願い

 

素直にそして誠実でいることを忘れず

 

あらゆる責任と義務から逃げず

 

決して威張らず、媚びず驕らず

 

群れず依存せず孤立せず

 

賢いけれどバカになれる

 

バカだけれど大人になれる

 

 

そういうイケメンに、私はなりたい。

同い年の有名人、集めてみました。(1993/4/1-1994/3/31)

本日、わたくし前島凌、24歳になりました。干支2周目の旅を無事終えて、3周目が始まりました。おかげさまですありがとう。

こちら、今年の年男&年女です。
全員タメです。同い年です。

 

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誕生日にあげるために必死こいて集めてたのは秘密です。いいんです。自己満なんです。

 

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探したらおれが知ってる人は全部で50人近くいたんだけど、前島チョイスで選抜しました。全員名前言えるかな?

 

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遠い世界の芸能人、才能溢れるアスリート、もちろんおれの周りの愉快で楽しい同い年も。93年生まれ、平成生まれのゆとり世代、社会の荒波にもまれながら頑張ってる。日なたでも隅っこでも、眩しくても鈍くても、みんなちゃんと生きてる輝いてる。だからおれも頑張れる。

ハッピーバースデーおれ!
干支3周目、張り切っていってみよー!

住野よる「君の膵臓をたべたい」レビュー

インパクトのあるタイトルだと思った。そしてタイトルと冒頭から、おおかたストーリーの予想はついた。だから映画化と聞くまでは気になっていたけど読まなかった。読みかけの小説もあったし。でも買った。そして読んだ。映画化と聞いてなんとなく気になったからだ。あんまり大きな動機はない。読書ってそんなもんでいいと思う。小難しい本を読む必要はない。小説でもエッセイでも、なんでもいい。気になった本を好きなとこまで読む。たまたま最後まで読めたら、まあ読めなくても、それだけで自分の世界が豊かになる。

今回、この小説を読んで、いくつか感じたことがあったし、自分なりの言葉で紡げそうな気がするので、キーボードに手を伸ばした次第だ。ここから先は、盛大なネタバレというか、結末と核心にガンガン触れていくので、閲覧注意&自己責任とさせていただきたい。

 

【以下閲覧注意・ネタバレあり】

※読みたい人はスクロール

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ここまでスクロールしてくれた人、ありがとう。君の膵臓をたべたい。目次は以下だ。

⓪ストーリー要約

①タイトルの意味と解釈について

②主人公の名前を伏せる意味と、鳥肌が立った一文

③彼女の死因について

④突っ込みどころ

⑤さいごに

 

⓪根暗で自分の殻に閉じこもっている主人公と、対称的に社交的で陽気なヒロインとの心の触れあいを描いた爽やかな小説。高校生ながら、膵臓に大病を患った彼女の余命はわずかである。よくあるお涙頂戴の設定だろうか。高校生と言う青さ、どこまでも冷静な主人公と、どこまでも明るく快活なヒロイン。このまま、二人の成り行きを見守っていたいと思わせる。ところが、主人公が「この気持ちはなんだ」と少し考え気づき始めたところで彼女は死んでしまう。彼女は病によって死んだのではない。誰にでも起こりうる理不尽な死が、彼女の命を奪った。彼が、そして彼女が、お互いに送りあった最後の言葉。それが「君の膵臓を食べたい」である。心が通っていたこと。繋がっていたこと。届いていたこと。彼はそこで、初めて感情を爆発させる。彼女と過ごしたことで彼は少しずつ変わり始める。他人との関わりから逃げないようになる。「もう、怖いとは思わなかった。」この一文で物語は締めくくられる。もし、自分の命が、1年後、いや半年後、1か月後、1週間後、もしくは、明日。終わるとわかっていたら、私たちは今日をどう生きるべきか。私たちに大きな疑問を投げかけ、大切なことはなにか考えさせられる小説だった。

 

ここからは、私なりの解釈を書いていくので、何卒ご了承いただきたい。

①「君の膵臓をたべたい」、改めてインパクトのあるタイトルだ。どういう意味かは、冒頭で出てくる。主人公とヒロインの何気ない会話のひとつとして出てくる。しかしこの言葉が、すべて読み終わった後、違った意味でとらえられる。日本語を日本語で翻訳するというのもおかしな話だが、訳すならば、「君になりたい」「君が好きだ」「愛している」となるのではないだろうか。最後のは意訳すぎるかな。冒頭では会話の種、冗談のひとつとして出てきた何気ない言葉が、読み進めていくうち、ずっと伏線として読み手の中に残り、読み終えた後に特別な意味を持たせる。『読後、きっとこのタイトルに涙する』。帯には、映画化!の文字とともにこの一文があったが、まんまとやられた。涙まではいかなかったが、心を揺さぶられた。二人をつなぐ言葉として、二人の関係性を表す言葉として、この言葉が使われたのだ。「好きだよ」でも、「ずっと一緒に居て」でも、「死なないで」でもなく。ありふれた言葉ではなく。二人だけが知っている、二人だから分かり合える言葉。それが、「君の膵臓をたべたい」だ。

②読み始めるとすぐに、主人公の名前が意図的に伏せられていることに気づく。というか違和感を覚えた。そこにいる周りの人間との関係性によって、【大人しいクラスメイト】だったり、【仲のいいクラスメイト】だったり、【地味なクラスメイト】だったりする。もしかしたら、普通の小説とは違ったクセのある表現に、戸惑ってしまう人もいるのではないかと思った。明らかに意図的だ。そして、彼の名前は彼女の死後まで決して明かされない。主人公の男子高校生は、友達がおらず、根暗で、自分の殻に閉じこもっている。人との関わりを楽しめない、もしくは頑なに拒んでいるような性格だ。そんな主人公に、すべてとはいかなくとも、共感する人は必ずいるはずだ。悪目立ちせず、注目を浴びず、誰にも迷惑をかけず生きていきたい。主人公に、読み手は皆、程度はそれぞれだろうが、自分を重ね合わせてしまう。作者は、この主人公が決してヒロインの名前を呼ばなかったように、名前を明かすことで主人公を読み手の中の誰かにしたくなかったのではないだろうか。あるいは、周りの人間との関係性でしかその人を見れなくなっている我々に、皮肉の意味も込めているのかもしれない。小説の中には、いくつもの強い言葉、核心をついた言葉が出てきて、挙げ出すときりがないが、私がこの小説で唯一、意味を悟って鳥肌が立った一文がある。彼女の遺書の中に出てくる、「桜が、春を待っているみたいに。」という一文だ。彼女の名前は桜良(さくら)、主人公の名前は春樹(はるき)である。二人は逢うべくして出会った。自ら選んで出会った。彼女を名前で呼ばなかった主人公と、彼を名前で呼べなかった我々。名前が持つ大きな意味を最後に突き付けられ、ただただ鳥肌が止まらなかった。

③彼女は膵臓に病を患っている。余命はわずかだ。家族と、主人公と、読者を除いて、その事実を知る者はいない。それを思わせない変わらぬ振る舞い。周囲との関わりでしか自分を見つけられない。それが彼女にとっての生きることだったから。このヒロインにも多少共感するところはあるかもしれない。自分の命の終わりを知っているというだけで、こんなにも強くなれるものかと思った。ところが、彼女の命は、病によってではなく、無情にも、唐突にも、皮肉にも、「なぜよりによって彼女が…」と思わせるような終わり方をする。彼女が死んでしまう少し前の二人の会話で、「もしかしたら、彼女は膵臓で死ぬんじゃないのかも…」と勘ぐってしまった私の悪い予感は当たった。病ではなく、人の手によって彼女の命は奪われた。私は、憎しみを生むような死に方にしたのはなぜだろうと思った。憎しみは、時に人を狂わせ、大事なものを見失わせるやっかいな感情だ。家族が、友達が、彼女に関わる全ての人が、突然命を奪った犯人に怒りそして憎しみ、身を捨てて攻撃の対象とするのは至極当たり前のことだ。膵臓の病ではない、他の何かでよかったのではないか。例えば不慮の事故とか災害とか。でも待てよ、何か意図があるのかも…。そして気づいた。犯人についての記述はわずかで、憎しみや制裁といった部分には触れられていないことに。深読みしすぎと言われればそれまでだが、この彼女の死因は、「命の終わりはいつ来るかわからない。たとえそれが理不尽な終わり方でも、大事なものを見失うな。」と訴えかけているように感じた。

④さて、とても感動したし、買ってよかった、読んでよかったと思えたが、あくまでフィクションだから、突っ込みどころはいくらでもある。まず、年頃で同年代の女の子に冷静に突っ込んだり、ひねくれた返しをできたりする時点で、彼に友達が一人もいないのは少し設定としてはできすぎている。彼が友達という言葉で他人を見ていないのもあるかもしれないが、あまりに孤高すぎる。まあフィクションとしてはこれくらいがいいのかもしれないが。あとは、理性がでかすぎる。とてつもないでかい理性を持っている。そんな高校生なかなかいないぞと。もっと高校生って馬鹿だし、なんも考えてないぞと。部活とゲームと飯とエロでできてるぞ男子高校生なんて。って、思っちゃったよね。俺だけ?そして、彼女についても。余命が分かっていて、この若さで死と向き合うって、並大抵の精神力じゃない。強靭すぎる。友達に言わず、いつもと同じように振る舞うのが、どれだけつらいか。彼女とは全く違うけど、「死」とうものに本気で向き合ったことがある私から言わせれば、彼女もできすぎだ。そして遺書。あれはずるい。ほんとうにずるい。普段本を読まない女子高生があんな文章が書けるだろうか。死というものは、そんなにも人を強くさせるのだろうか。手書きの文庫として残しているというのも、ちょっと現代的ではないかなと。まあ、これらの突っ込みは、「フィクションだから」と言う言葉ですべて片付く。

⑤でも、フィクションだからこそ、誰も傷つけず学ぶことができる。知ることができる。大事なことは何だろうと、自分の心が答えを探し続けてくれる。フィクションでも、フィクションだから、人は感動できる。成長できる。大事なことに気づくことができる。だからヒロインのように、自分の気持ちを残しておこう。できれば自分の言葉で、自分の字で。日記を書こう。それはとらえようによっては遺書になる。命が大事だ。自分が大事だ。自分の心を見てくれる人が大事だ。見失わないように、なくさないように。落としても、また拾い集められるように。いつ終わるかわからない命を、大切に、丁寧に、時に大胆不敵に、時に後先考えず、時に理性と本能を戦わせて。生きよう。死ぬまで、生きよう。

男女間の友情は成立するかという不毛な議論におれが終止符を打つ

理系「いいか、男女間の友情は成立しない。そもそも男女間に友情なんてものは存在しない。人間には生物としての本能がある。男と女は別々の生き物ととらえたほうがいい。理性があるから分かり合えるが、それなしでは子孫を残すために手段を選ばないはずだ。男はなぜ浮気や不倫をするのか。それは本能に忠実だからだ。理性のさじ加減を誤っているというだけで。女性と接したとき、男は本能的に、反射的に、自分のパートナーとしてふさわしいか判断してしまう。潜在的か意識的かは各々異なるだろうが。セックスという行為は、男にとってはゴールで、女にとってはスタートなんだ。ヒトは頭がいいから、理性で物事を判断して制御できるが、結局は本能には逆らえない。男女間に芽生えるのは友情ではなく愛情だ。そしてそれは、新しく授かった命に受け継がれていく。愛情と友情をはき違えてはいけない。

 

文系「いやいや、男女間の友情は成立する。お互いに恋人やパートナーがいて、それでも会いたいと思う仲がある。性別を超えて、本心で話せる相手がいる。子孫を残すなんて大きな目的ではなく、誰かと心で繋がっていたいと望むのも人間の本能ではないのか。小さいころからの付き合いの同年代をを幼馴染というが、ドラマや映画でもない限り、それは美男美女ではないし、異性として意識することもないだろう。つまりそういう関係もある。仮に、それまで友達だった人を好きになったとする。異性として意識したとする。それは愛情かもしれない。しかし、友情とも呼べる。好きだと伝えても、関係が変わることなく続いていくのならば。思いを受け取った側が、決してその人に逃げないのならば。双方が、それでも友達でいたいと思うのならば。それは友情ではないのか。愛情と友情は紙一重だ。

 

おれ「よし、おれが終止符を打とう。まず、ここにある真実は男と女という事のみ。友情の解釈は各々違って当然なのだから、成立もクソもない。愛情と友情は大きく違うと言えば違うし、紙一重といえば紙一重。友情と愛情をどこまでと定義し線引きするのか。それが重要だが、所詮言葉の持つ力など、ヒトの本能には敵わない。果たして、定期的に会い、くだらないことを気兼ねなく話せる仲に生じるのが友情か。距離が離れていても、会える時間が無くても、心で繋がっている仲に生じるものか。触れ合い、絡み合い、隣で眠る仲に生じるのか。世の多くの人は、そんなことを考えずともわかっている。二つの感情は流動的かつ多様に移り変わり、また重なり合っている。明確な線引きなどありはしない。本質は、男女それぞれが、それらをどこでどう自覚するかということだ。その自覚した感情が、相手の感情や価値観と一致していれば、愛情もしくは友情となるのだろう。言葉で表現すればそういう事になるのだが、実際そこまで簡単にいかないのが人間の面白く、切なく、複雑なところではないか。悩んで考えて、正直になったり嘘をついたり、傷つけたり傷ついたり、自分を嫌いになったり好きになったりしながら生きていく。大事なのは、男女間に友情が成立しようがしまいが、相手の心をしっかりと見つめることだ。何を考えているのか、どう思っているのか。それを分かり合って、共に生きていくのだろう。言葉で何もかも決められるわけではない。心が、本当のことを知っている。」

彼女の家へ向かっている途中だった。彼女はおれの前を歩いている。重そうな荷物に「持つよ」と手を伸ばすと何も言わず拒否された。2,3歩離れられてしまった。前を歩く彼女が何を考えているのか、到底わからなかった。「なんで持たせてくれないの?」と聞いた。返事はない。

家に着いた。様子がおかしい。何も喋らず、そばにいるのにラインで写真が送られてきた。一瞬だけ見て、「楽しそう」と返した。写真の中の彼女が笑顔だったことだけ覚えている。突然彼女は歌い出した。瞳を真っ直ぐ見つめてきながら。スピッツ青い車だった。おれは歌詞の意味を考えて、見つめ返せなかった。サビだけ一緒に歌った。

何もなく、そのまま別々に寝た。

後日、改めて写真を見返すと、彼氏と思しき男とのツーショットだった。

 

っていう夢みた。恋すらしてないのになんで夢の中で失恋しなきゃならないのか脳みそに問い詰めてるとこ今。

いいこと言ったあとに「そしておれに彼女はいない。」を付け加えると説得力がなくなる。

RADWIMPS。彼らは最高だ。私が好きな曲のひとつにアイアンバイブルという曲があるのだが、彼らはその曲の最後で「ゼロを掛けないで」と歌っている。なんとも核心をついたことを歌っているではないか。私はもう何度もRADWIMPSに感動し、虜にされてきた。これについては語りだすと止まらないのでやめておくが、その「ゼロを掛けないで」という歌詞だけ引用させていただきたい。

私は発見してしまったのだ。具体から抽象へと展開するいいこと言ってる風の文章に「ゼロを掛けて」しまう魔法の言葉、いや、呪いのような言葉を。

 

「そしておれに彼女はいない。」

 

はぁ。思わずため息が漏れてしまう。こんな悲しい言葉があっていいのだろうか。まあしかし、事実なのだから仕方ない。この言葉が最大の効果を発揮するのは恋愛系のそれっぽい文章ではないかと思う。妄想なら自信があるので、早速使ってみることにしよう。くれぐれも、温かい目と穏やかな心で読んでほしい。

 

 

――――――――――――――――

 

恋人ができたらしたいことがある。次々思いつくが、残念なことに、消費されず溜まっていく一方だ。

その中のひとつに、『一緒にフェスやライブに行く』というのがある。「まあ、音楽が好きなら、ありきたりだよねw」と、どこかで小馬鹿にする自分がいるが、いやまて、よく考えろ大馬鹿野郎。ありきたりこそ最高だろうが。一緒にRADのライブに行って、一緒に拳を突き上げ、一緒に体を揺らしたいだろうが。寄せ合う身体と繋いだ手にドキドキしたいだろうが。こんなに人を好きになっていいんですかと叫びたいだろうが。

音楽好きの相手ならもちろんいいが、音楽がそこまで好きじゃなくてもいい。バンドをあまり知らない、ライブなんて行ったことがない。好きになった人がたまたまそうだった。そんな相手を、なんとかしてライブに誘う。当然乗り気じゃないが、こちらは必要とあればロックの素晴らしさについてプレゼンテーションを展開する覚悟だ。なんとか熱意が伝わり、一緒に行ってくれることになった。ライブ当日。なんだかんだ言って楽しそうにしているではないか。自分も、自分が行きたくて誘ったので存分に楽しんだ。好きな人と聞く好きなバンドのライブは最高で、きっと彼女もわかってくれただろうと思った。ところが、ライブが終わって家に帰り、興奮も冷めた頃、彼女は本音を言ってくれた。「やっぱり私には、ああいう場所はあんまり向いてないと思った。」・・・うーんそうか、と少し落ち込む。だが、彼女は顔を赤らめてこう続けるのだ。

「でも、楽しんでるあなたは素敵だった。もっとあなたが好きになった。だから今日は行ってよかった。」

 

・・・

 

・・・(照れが限界突破するまでの間)

 

 

「きゃ~~~~~~!!!!!!!なにそれ~~~~~~~~!!!!!!!君と夏フェスのやつ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」

「爆発してまうやろ~~~~~~~~~~!!!!!!!」

「好きだ~~~~~~~~~~~!!!!!!!」(強く抱きしめる)

 

 

 

 

・・・失礼興奮してしまった。あの〜、ね。妄想って、いいよね。タダだし。

ここからは真面目にいくので許してほしい。

 

この妄想から学ぶべきは、好き同士だからといって、恋人の好きなものを全部丸ごと好きになる必要はないということ。たとえ自分が理解できないものだとしても、それを好きでいる相手のことが好きならば。彼、もしくは彼女が、自分のことを好きでいてくれるならば。

価値観は人それぞれで、多少なりとも異なるのが当然だ。美しさもかっこよさも、楽しさも面白さも、全てを自分と同じように感じる人などいないだろう。価値観に大きな相違があっても、捉え方次第では好相性になりうる。そうやって人は人を知り、受け入れ、そして好きになる。

人に対しても物に対しても「好き」は無敵だが、夢中になりすぎて大切なものを見失ってはいけない。自分の気持ちを大事にできているか。相手をしっかりと見ているか。見失わないように、忘れないように、何度も自らに問いかけ言い聞かす。そうして恋人たちは、恋して、愛して、時に傷つけ合い、許し合い、支え合い、共に歩んでいく。いつか別れが来る時まで。

最後に、一番伝えたいことを言おう。

 

そしておれに彼女はいない。