まえしまのブログ

いや、お恥ずかしい

同い年の有名人、集めてみました。(1993/4/1-1994/3/31)

本日、わたくし前島凌、24歳になりました。干支2周目の旅を無事終えて、3周目が始まりました。おかげさまですありがとう。

こちら、今年の年男&年女です。
全員タメです。同い年です。

 

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誕生日にあげるために必死こいて集めてたのは秘密です。いいんです。自己満なんです。

 

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探したらおれが知ってる人は全部で50人近くいたんだけど、前島チョイスで選抜しました。全員名前言えるかな?

 

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遠い世界の芸能人、才能溢れるアスリート、もちろんおれの周りの愉快で楽しい同い年も。93年生まれ、平成生まれのゆとり世代、社会の荒波にもまれながら頑張ってる。日なたでも隅っこでも、眩しくても鈍くても、みんなちゃんと生きてる輝いてる。だからおれも頑張れる。

ハッピーバースデーおれ!
干支3周目、張り切っていってみよー!

住野よる「君の膵臓をたべたい」レビュー

インパクトのあるタイトルだと思った。そしてタイトルと冒頭から、おおかたストーリーの予想はついた。だから映画化と聞くまでは気になっていたけど読まなかった。読みかけの小説もあったし。でも買った。そして読んだ。映画化と聞いてなんとなく気になったからだ。あんまり大きな動機はない。読書ってそんなもんでいいと思う。小難しい本を読む必要はない。小説でもエッセイでも、なんでもいい。気になった本を好きなとこまで読む。たまたま最後まで読めたら、まあ読めなくても、それだけで自分の世界が豊かになる。

今回、この小説を読んで、いくつか感じたことがあったし、自分なりの言葉で紡げそうな気がするので、キーボードに手を伸ばした次第だ。ここから先は、盛大なネタバレというか、結末と核心にガンガン触れていくので、閲覧注意&自己責任とさせていただきたい。

 

【以下閲覧注意・ネタバレあり】

※読みたい人はスクロール

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ここまでスクロールしてくれた人、ありがとう。君の膵臓をたべたい。目次は以下だ。

⓪ストーリー要約

①タイトルの意味と解釈について

②主人公の名前を伏せる意味と、鳥肌が立った一文

③彼女の死因について

④突っ込みどころ

⑤さいごに

 

⓪根暗で自分の殻に閉じこもっている主人公と、対称的に社交的で陽気なヒロインとの心の触れあいを描いた爽やかな小説。高校生ながら、膵臓に大病を患った彼女の余命はわずかである。よくあるお涙頂戴の設定だろうか。高校生と言う青さ、どこまでも冷静な主人公と、どこまでも明るく快活なヒロイン。このまま、二人の成り行きを見守っていたいと思わせる。ところが、主人公が「この気持ちはなんだ」と少し考え気づき始めたところで彼女は死んでしまう。彼女は病によって死んだのではない。誰にでも起こりうる理不尽な死が、彼女の命を奪った。彼が、そして彼女が、お互いに送りあった最後の言葉。それが「君の膵臓を食べたい」である。心が通っていたこと。繋がっていたこと。届いていたこと。彼はそこで、初めて感情を爆発させる。彼女と過ごしたことで彼は少しずつ変わり始める。他人との関わりから逃げないようになる。「もう、怖いとは思わなかった。」この一文で物語は締めくくられる。もし、自分の命が、1年後、いや半年後、1か月後、1週間後、もしくは、明日。終わるとわかっていたら、私たちは今日をどう生きるべきか。私たちに大きな疑問を投げかけ、大切なことはなにか考えさせられる小説だった。

 

ここからは、私なりの解釈を書いていくので、何卒ご了承いただきたい。

①「君の膵臓をたべたい」、改めてインパクトのあるタイトルだ。どういう意味かは、冒頭で出てくる。主人公とヒロインの何気ない会話のひとつとして出てくる。しかしこの言葉が、すべて読み終わった後、違った意味でとらえられる。日本語を日本語で翻訳するというのもおかしな話だが、訳すならば、「君になりたい」「君が好きだ」「愛している」となるのではないだろうか。最後のは意訳すぎるかな。冒頭では会話の種、冗談のひとつとして出てきた何気ない言葉が、読み進めていくうち、ずっと伏線として読み手の中に残り、読み終えた後に特別な意味を持たせる。『読後、きっとこのタイトルに涙する』。帯には、映画化!の文字とともにこの一文があったが、まんまとやられた。涙まではいかなかったが、心を揺さぶられた。二人をつなぐ言葉として、二人の関係性を表す言葉として、この言葉が使われたのだ。「好きだよ」でも、「ずっと一緒に居て」でも、「死なないで」でもなく。ありふれた言葉ではなく。二人だけが知っている、二人だから分かり合える言葉。それが、「君の膵臓をたべたい」だ。

②読み始めるとすぐに、主人公の名前が意図的に伏せられていることに気づく。というか違和感を覚えた。そこにいる周りの人間との関係性によって、【大人しいクラスメイト】だったり、【仲のいいクラスメイト】だったり、【地味なクラスメイト】だったりする。もしかしたら、普通の小説とは違ったクセのある表現に、戸惑ってしまう人もいるのではないかと思った。明らかに意図的だ。そして、彼の名前は彼女の死後まで決して明かされない。主人公の男子高校生は、友達がおらず、根暗で、自分の殻に閉じこもっている。人との関わりを楽しめない、もしくは頑なに拒んでいるような性格だ。そんな主人公に、すべてとはいかなくとも、共感する人は必ずいるはずだ。悪目立ちせず、注目を浴びず、誰にも迷惑をかけず生きていきたい。主人公に、読み手は皆、程度はそれぞれだろうが、自分を重ね合わせてしまう。作者は、この主人公が決してヒロインの名前を呼ばなかったように、名前を明かすことで主人公を読み手の中の誰かにしたくなかったのではないだろうか。あるいは、周りの人間との関係性でしかその人を見れなくなっている我々に、皮肉の意味も込めているのかもしれない。小説の中には、いくつもの強い言葉、核心をついた言葉が出てきて、挙げ出すときりがないが、私がこの小説で唯一、意味を悟って鳥肌が立った一文がある。彼女の遺書の中に出てくる、「桜が、春を待っているみたいに。」という一文だ。彼女の名前は桜良(さくら)、主人公の名前は春樹(はるき)である。二人は逢うべくして出会った。自ら選んで出会った。彼女を名前で呼ばなかった主人公と、彼を名前で呼べなかった我々。名前が持つ大きな意味を最後に突き付けられ、ただただ鳥肌が止まらなかった。

③彼女は膵臓に病を患っている。余命はわずかだ。家族と、主人公と、読者を除いて、その事実を知る者はいない。それを思わせない変わらぬ振る舞い。周囲との関わりでしか自分を見つけられない。それが彼女にとっての生きることだったから。このヒロインにも多少共感するところはあるかもしれない。自分の命の終わりを知っているというだけで、こんなにも強くなれるものかと思った。ところが、彼女の命は、病によってではなく、無情にも、唐突にも、皮肉にも、「なぜよりによって彼女が…」と思わせるような終わり方をする。彼女が死んでしまう少し前の二人の会話で、「もしかしたら、彼女は膵臓で死ぬんじゃないのかも…」と勘ぐってしまった私の悪い予感は当たった。病ではなく、人の手によって彼女の命は奪われた。私は、憎しみを生むような死に方にしたのはなぜだろうと思った。憎しみは、時に人を狂わせ、大事なものを見失わせるやっかいな感情だ。家族が、友達が、彼女に関わる全ての人が、突然命を奪った犯人に怒りそして憎しみ、身を捨てて攻撃の対象とするのは至極当たり前のことだ。膵臓の病ではない、他の何かでよかったのではないか。例えば不慮の事故とか災害とか。でも待てよ、何か意図があるのかも…。そして気づいた。犯人についての記述はわずかで、憎しみや制裁といった部分には触れられていないことに。深読みしすぎと言われればそれまでだが、この彼女の死因は、「命の終わりはいつ来るかわからない。たとえそれが理不尽な終わり方でも、大事なものを見失うな。」と訴えかけているように感じた。

④さて、とても感動したし、買ってよかった、読んでよかったと思えたが、あくまでフィクションだから、突っ込みどころはいくらでもある。まず、年頃で同年代の女の子に冷静に突っ込んだり、ひねくれた返しをできたりする時点で、彼に友達が一人もいないのは少し設定としてはできすぎている。彼が友達という言葉で他人を見ていないのもあるかもしれないが、あまりに孤高すぎる。まあフィクションとしてはこれくらいがいいのかもしれないが。あとは、理性がでかすぎる。とてつもないでかい理性を持っている。そんな高校生なかなかいないぞと。もっと高校生って馬鹿だし、なんも考えてないぞと。部活とゲームと飯とエロでできてるぞ男子高校生なんて。って、思っちゃったよね。俺だけ?そして、彼女についても。余命が分かっていて、この若さで死と向き合うって、並大抵の精神力じゃない。強靭すぎる。友達に言わず、いつもと同じように振る舞うのが、どれだけつらいか。彼女とは全く違うけど、「死」とうものに本気で向き合ったことがある私から言わせれば、彼女もできすぎだ。そして遺書。あれはずるい。ほんとうにずるい。普段本を読まない女子高生があんな文章が書けるだろうか。死というものは、そんなにも人を強くさせるのだろうか。手書きの文庫として残しているというのも、ちょっと現代的ではないかなと。まあ、これらの突っ込みは、「フィクションだから」と言う言葉ですべて片付く。

⑤でも、フィクションだからこそ、誰も傷つけず学ぶことができる。知ることができる。大事なことは何だろうと、自分の心が答えを探し続けてくれる。フィクションでも、フィクションだから、人は感動できる。成長できる。大事なことに気づくことができる。だからヒロインのように、自分の気持ちを残しておこう。できれば自分の言葉で、自分の字で。日記を書こう。それはとらえようによっては遺書になる。命が大事だ。自分が大事だ。自分の心を見てくれる人が大事だ。見失わないように、なくさないように。落としても、また拾い集められるように。いつ終わるかわからない命を、大切に、丁寧に、時に大胆不敵に、時に後先考えず、時に理性と本能を戦わせて。生きよう。死ぬまで、生きよう。

男女間の友情は成立するかという不毛な議論におれが終止符を打つ

理系「いいか、男女間の友情は成立しない。そもそも男女間に友情なんてものは存在しない。人間には生物としての本能がある。男と女は別々の生き物ととらえたほうがいい。理性があるから分かり合えるが、それなしでは子孫を残すために手段を選ばないはずだ。男はなぜ浮気や不倫をするのか。それは本能に忠実だからだ。理性のさじ加減を誤っているというだけで。女性と接したとき、男は本能的に、反射的に、自分のパートナーとしてふさわしいか判断してしまう。潜在的か意識的かは各々異なるだろうが。セックスという行為は、男にとってはゴールで、女にとってはスタートなんだ。ヒトは頭がいいから、理性で物事を判断して制御できるが、結局は本能には逆らえない。男女間に芽生えるのは友情ではなく愛情だ。そしてそれは、新しく授かった命に受け継がれていく。愛情と友情をはき違えてはいけない。

 

文系「いやいや、男女間の友情は成立する。お互いに恋人やパートナーがいて、それでも会いたいと思う仲がある。性別を超えて、本心で話せる相手がいる。子孫を残すなんて大きな目的ではなく、誰かと心で繋がっていたいと望むのも人間の本能ではないのか。小さいころからの付き合いの同年代をを幼馴染というが、ドラマや映画でもない限り、それは美男美女ではないし、異性として意識することもないだろう。つまりそういう関係もある。仮に、それまで友達だった人を好きになったとする。異性として意識したとする。それは愛情かもしれない。しかし、友情とも呼べる。好きだと伝えても、関係が変わることなく続いていくのならば。思いを受け取った側が、決してその人に逃げないのならば。双方が、それでも友達でいたいと思うのならば。それは友情ではないのか。愛情と友情は紙一重だ。

 

おれ「よし、おれが終止符を打とう。まず、ここにある真実は男と女という事のみ。友情の解釈は各々違って当然なのだから、成立もクソもない。愛情と友情は大きく違うと言えば違うし、紙一重といえば紙一重。友情と愛情をどこまでと定義し線引きするのか。それが重要だが、所詮言葉の持つ力など、ヒトの本能には敵わない。果たして、定期的に会い、くだらないことを気兼ねなく話せる仲に生じるのが友情か。距離が離れていても、会える時間が無くても、心で繋がっている仲に生じるものか。触れ合い、絡み合い、隣で眠る仲に生じるのか。世の多くの人は、そんなことを考えずともわかっている。二つの感情は流動的かつ多様に移り変わり、また重なり合っている。明確な線引きなどありはしない。本質は、男女それぞれが、それらをどこでどう自覚するかということだ。その自覚した感情が、相手の感情や価値観と一致していれば、愛情もしくは友情となるのだろう。言葉で表現すればそういう事になるのだが、実際そこまで簡単にいかないのが人間の面白く、切なく、複雑なところではないか。悩んで考えて、正直になったり嘘をついたり、傷つけたり傷ついたり、自分を嫌いになったり好きになったりしながら生きていく。大事なのは、男女間に友情が成立しようがしまいが、相手の心をしっかりと見つめることだ。何を考えているのか、どう思っているのか。それを分かり合って、共に生きていくのだろう。言葉で何もかも決められるわけではない。心が、本当のことを知っている。」

彼女の家へ向かっている途中だった。彼女はおれの前を歩いている。重そうな荷物に「持つよ」と手を伸ばすと何も言わず拒否された。2,3歩離れられてしまった。前を歩く彼女が何を考えているのか、到底わからなかった。「なんで持たせてくれないの?」と聞いた。返事はない。

家に着いた。様子がおかしい。何も喋らず、そばにいるのにラインで写真が送られてきた。一瞬だけ見て、「楽しそう」と返した。写真の中の彼女が笑顔だったことだけ覚えている。突然彼女は歌い出した。瞳を真っ直ぐ見つめてきながら。スピッツ青い車だった。おれは歌詞の意味を考えて、見つめ返せなかった。サビだけ一緒に歌った。

何もなく、そのまま別々に寝た。

後日、改めて写真を見返すと、彼氏と思しき男とのツーショットだった。

 

っていう夢みた。恋すらしてないのになんで夢の中で失恋しなきゃならないのか脳みそに問い詰めてるとこ今。

いいこと言ったあとに「そしておれに彼女はいない。」を付け加えると説得力がなくなる。

RADWIMPS。彼らは最高だ。私が好きな曲のひとつにアイアンバイブルという曲があるのだが、彼らはその曲の最後で「ゼロを掛けないで」と歌っている。なんとも核心をついたことを歌っているではないか。私はもう何度もRADWIMPSに感動し、虜にされてきた。これについては語りだすと止まらないのでやめておくが、その「ゼロを掛けないで」という歌詞だけ引用させていただきたい。

私は発見してしまったのだ。具体から抽象へと展開するいいこと言ってる風の文章に「ゼロを掛けて」しまう魔法の言葉、いや、呪いのような言葉を。

 

「そしておれに彼女はいない。」

 

はぁ。思わずため息が漏れてしまう。こんな悲しい言葉があっていいのだろうか。まあしかし、事実なのだから仕方ない。この言葉が最大の効果を発揮するのは恋愛系のそれっぽい文章ではないかと思う。妄想なら自信があるので、早速使ってみることにしよう。くれぐれも、温かい目と穏やかな心で読んでほしい。

 

 

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恋人ができたらしたいことがある。次々思いつくが、残念なことに、消費されず溜まっていく一方だ。

その中のひとつに、『一緒にフェスやライブに行く』というのがある。「まあ、音楽が好きなら、ありきたりだよねw」と、どこかで小馬鹿にする自分がいるが、いやまて、よく考えろ大馬鹿野郎。ありきたりこそ最高だろうが。一緒にRADのライブに行って、一緒に拳を突き上げ、一緒に体を揺らしたいだろうが。寄せ合う身体と繋いだ手にドキドキしたいだろうが。こんなに人を好きになっていいんですかと叫びたいだろうが。

音楽好きの相手ならもちろんいいが、音楽がそこまで好きじゃなくてもいい。バンドをあまり知らない、ライブなんて行ったことがない。好きになった人がたまたまそうだった。そんな相手を、なんとかしてライブに誘う。当然乗り気じゃないが、こちらは必要とあればロックの素晴らしさについてプレゼンテーションを展開する覚悟だ。なんとか熱意が伝わり、一緒に行ってくれることになった。ライブ当日。なんだかんだ言って楽しそうにしているではないか。自分も、自分が行きたくて誘ったので存分に楽しんだ。好きな人と聞く好きなバンドのライブは最高で、きっと彼女もわかってくれただろうと思った。ところが、ライブが終わって家に帰り、興奮も冷めた頃、彼女は本音を言ってくれた。「やっぱり私には、ああいう場所はあんまり向いてないと思った。」・・・うーんそうか、と少し落ち込む。だが、彼女は顔を赤らめてこう続けるのだ。

「でも、楽しんでるあなたは素敵だった。もっとあなたが好きになった。だから今日は行ってよかった。」

 

・・・

 

・・・(照れが限界突破するまでの間)

 

 

「きゃ~~~~~~!!!!!!!なにそれ~~~~~~~~!!!!!!!君と夏フェスのやつ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」

「爆発してまうやろ~~~~~~~~~~!!!!!!!」

「好きだ~~~~~~~~~~~!!!!!!!」(強く抱きしめる)

 

 

 

 

・・・失礼興奮してしまった。あの〜、ね。妄想って、いいよね。タダだし。

ここからは真面目にいくので許してほしい。

 

この妄想から学ぶべきは、好き同士だからといって、恋人の好きなものを全部丸ごと好きになる必要はないということ。たとえ自分が理解できないものだとしても、それを好きでいる相手のことが好きならば。彼、もしくは彼女が、自分のことを好きでいてくれるならば。

価値観は人それぞれで、多少なりとも異なるのが当然だ。美しさもかっこよさも、楽しさも面白さも、全てを自分と同じように感じる人などいないだろう。価値観に大きな相違があっても、捉え方次第では好相性になりうる。そうやって人は人を知り、受け入れ、そして好きになる。

人に対しても物に対しても「好き」は無敵だが、夢中になりすぎて大切なものを見失ってはいけない。自分の気持ちを大事にできているか。相手をしっかりと見ているか。見失わないように、忘れないように、何度も自らに問いかけ言い聞かす。そうして恋人たちは、恋して、愛して、時に傷つけ合い、許し合い、支え合い、共に歩んでいく。いつか別れが来る時まで。

最後に、一番伝えたいことを言おう。

 

そしておれに彼女はいない。

二度寝を克服する方法を見つけた

朝が苦手だ。朝起きるのが辛い。一日始まるのが憂鬱とかじゃなくて、シンプルに眠い。なんというか、動き出せない。重力に勝てない。思えば私は、小学校のころから母親に大声で叫び起こされていた記憶があるし、中学も高校も、ギリギリに起きてギリギリに学校に着いていた。大学生活では顕著にそれが現れた。寝坊すっぽかし数知れず。大学まで徒歩2分の甘え。大学生活の半分くらい寝てたんじゃないかと思うくらいに寝てた。(いやさすがに盛った。)最近また一人暮らしを始めて、毎朝頑張って起きている。やはり朝はつらいが、ついに自分に合った起床方法を見つけたと思うので今回ははそれについてのお話を少々。

 

大学時代、朝起きれない理由はたくさんあったように思う。忙しいとはいえ、これまでより時間はあるし、なにしろ一人暮らしは自由だ。夜遅く、というか明け方まで起きていて、次の日朝から授業。そんなことがよくあった。深夜0時までのバイトも始めてしまったもんだから、次第に体が夜型になっていったのだろう。もうどこへいっても、寝坊キャラが定着してしまった。まあ事実なのだから仕方がない。申し訳ないと毎回思うが、そう言われることにも慣れてしまった。最近届いた卒業アルバムでも、前島のイメージはやはり「寝坊しそう」が第一位。みなよくわかっておる。正解。当然。

環境も大きく関わってはいるが、根本的にはやはり体質だと思う。母親によれば、私は小さいころから、寝るのが好きだったようだ。公園へ遊びに行きたがる姉と対照的に、座布団を引きずって誰もいない部屋へ行き、昼寝をしていたとのこと。曰く、「手のかからない子だった。」なるほど物はいいようだな。さすが母上である。まあ今こうしてちゃんと一人暮らしできているのだからオールOKだ。のびのびと育ててくれたことに感謝しよう。

さてそんな朝が苦手な私でも、スッと起きられる時がある。旅行やライブなんかの楽しみがあるときや、本当に大事な用事があるときだ。面接とかね。誰でもそうだろうが、なぜ起きれるのだろう。せっかく医療系の大学を出ているので、生理学的なとこから考えてみることにする。中途半端な知識でそれっぽく語るので、ところどころ語尾に(たぶん。)をつけながら読んでいただけるとありがたい。

人間には自律神経というものがあり、身体を臨戦態勢に持っていくとされる交感神経と、リラックスや休息の時に働く副交感神経がある。身体の諸器官に対してお互いに反対の効果を持つ。誰しも小さい頃、明日が楽しみで寝れないという夜は経験したのではないか。きっとそれは交感神経がビンビンな状態なのだ。眠りに落ちたとしても、浅い眠りだろう。だから目覚めるのも動き出すのもスムーズだ。つまり先にあげた、楽しみや大事な用があるときは、これにあたる。「お前、休んでる場合じゃねえぞ。起きろ。いくぞ。」交感神経先輩はそう言っている。しかし、特に気を張る必要もない時は、「もうちょい寝ときなよ。大丈夫大丈夫。休んどこ休んどこ。動き出すの疲れるよね。わかる。任せて。」という副交感神経様のささやきに負けてしまうのだ。もちろん私の、「本当に大事じゃないなら死ぬわけじゃないんだしオッケーオッケー」というマイペースな性格もかなり影響しているのは否めない。結果、低血圧で頭に血が回らないためボーっとしてしまう。そして重力に負け、横に倒れてしまうのだ。

私の場合は、目が覚めることは覚めるのだが、もう一度寝てしまう。いわゆる二度寝。これが問題だ。どんなに大騒音の目覚まし時計も、この二度寝神の前には無力である。慣れとは恐ろしい。目は覚めてて、起きなきゃと思うのに、どうしても耐えきれず横になってしまう。まだいける、まだ大丈夫と。こうして朝の貴重な食事と、整容の時間が削られていくのだ。本当に、ひとたび横になると一瞬で意識を失ってしまう。だからこれを克服するには、寝起きの頭と体を抗重力位に慣れさせることが必要だと考えた。

ではどうするのか。それは、動き出せるようになるまで、抗重力位を保つ。座って何もせずただボーっとするだけ。それだけだ。これが見つけた方法だ。座ってさえすればいいが、ひとつだけ、『絶対に横になってはいけない』というルールを自分に課す。横にならないことだけ守る。胡坐をかいたり正座したりして、この眠気はどうにかならないのかと血の回らない頭でボーっと考える。シンプルだがかなりきつい。朝が苦手な人ならばわかってくれるだろう。もちろん時間はかかる。全然眠さが引かず、Windows98の起動かってくらい時間がかかる。でも動き出せるときは来る。いまはまだ15分くらいかかるが、起きてすぐ動かなくていいんだと考えると朝に少し余裕が出てきた。二度寝の確率は下がってきた。長年この問題に悩まされてきたが、画期的な方法はなく、シンプルに眠気と真正面から向き合うしかないのだとようやく気付いた。結局は気持ち。自分との戦いである。

この朝が苦手だという話に限らず、苦手だからしょうがないと目を背けるのは非常にナンセンスだと思う。どんなことも、ちゃんと向き合えば必ず自分なりの方法は見つかるのだと学んだ。

 

以上が、ついに見つけた起床方法だ。二度寝せずに朝をゆっくりと過ごしているなんてそんなの前島じゃないと言われてしまうだろうか。安心してほしい。反動は週末に出る。

優雅で華麗、圧倒的無駄のなさ。そんなお手本のような二度寝を流れるように決めているので、一緒に二度寝をしてくれる、または先に起きていて「まだねてるのー?」とか言いながら起こしに来てくれる素敵な彼女を探し求めて三千里の旅に出ることにします。探さないでください。

だからあれほど、「ユニクロで買うのは下着とボトムスとUTだけにしろ」って言ったのに...また返品しに行くの?

このセリフ、何回自分に言っているかわからない。ユニクロで全身を固めても格好よく決まるのはイケメン+モデル体型だけだ。だが、好きな服の店やブランドはいくつかあっても全身をそれらで揃えるほどの情熱をファッションに注げない私は、都会にも田舎にも、どんな街にもあるユニクロによく行く。シンプル、ベーシック、スタンダード、機能的。そんな言葉が似合うユニクロである。さらにコストパフォーマンスもなかなかだ。いわゆるファストファッションいわれるジャンルだろう。ついつい買いすぎてしまう。なんだ、いいじゃんこれ。ユニクロでいいじゃんと。もちろんちゃんと試着してるし、しっかり迷って買ってる。しかしなぜだろう。せっかく買ったものを、私はよく返品しに行くのだ。なんとも愚かだ。今回引っ越してからも、ユニクロで色々と買っては返品した。学習しない男である。誤解を招く前に言っておくが、私はユニクロ推したいわけでも否定したいわけでもない。どんなものでもどんな値段でも、欲しいと思ったら買えばいいし、やっぱ違うと思ったら返品するなり売るなりそれは個人の自由だ。しかし、この一連の非常にめんどくさい流れから、あることを思ったのだ。

もう一つ聞いてほしい話がある。スプーンの話だ。引っ越してすぐ、仕事を始める前、新生活で必要な物品を揃えていた。近くにバカでかいホームセンターを見つけたので、そこでキッチン用品や洗濯用品などを買いにいった。最低限と言い聞かせてはいたが、それでも何度も来るのは面倒なので次々カートに放り込んでいった。その中のひとつにスプーンがあった。箸と並んで食事には欠かせないものだろう。大小それぞれ買ったが、値段がやけに張ったのを覚えている。「まっ、しゃーなしだな・・・はは・・・」心の中でそうつぶやいて、そこでの買い物は終わらせた。その後、100均ショップに用があって立ち寄った。そこで私は愕然としたのだ。おいおい、食器類、ここでいいじゃん。キッチン用品、ここでいいじゃん。まって、スプーン、大小とも2個100円で買えるじゃん。あぁ、なんてことだ。なぜ気づかなかったんだ。なぜ先に100均に行かなかったんだ。なんてバカだったんだ。もう買ってしまった。足は疲れ切っているし返品も馬鹿らしい。畜生。反省して次に生かそうにも、次の機会が来ることは果たしてあるだろうか。仮に引っ越すにしても、食器類を捨てることは当分ないだろう。畜生、ちくしょう・・・。そんな風に落ち込みながら帰宅した。たかがスプーンで、と思われるだろうか。いいんだ、小さい男で結構。しかし次の日にアイスクリームを食べたときのことだ。紙カップのものを小さいスプーンで食べた。いつも食べ終わったカップにスプーンをそのまま置いておくと、スプーンの重みでカップ自体がコテンと倒れてきてしまい気になっていたのだが、今回はそうはいかなかった。ちゃんと倒れずにいるではないか。私はすぐに気付いた。スプーンがいいから倒れないのだ。重心がすくう方にあり、持ち手の先にいくにつれて軽くなっている。サイズも計算されている。すばらしい。だから高かったのか。100均のスプーンだったら、倒れていたに違いない。そう思った。

お分かりいただけただろうか。身近で間抜けな2つの出来事である。ユニクロの例は、リーズナブル(私含めユニクロファンのために安いではなくリーズナブルと言わせていただく)がゆえに商品を見極められず返品に至った。スプーンの例は、高いものを買ってしまいもっと安く済むものがあったのにと落ち込むが、高い理由を実感して満足した。2つの例に共通するのは、値段が意味する自分にとっての価値を知ったということだ。値段には必ず意味がある。高いものには高い理由が、安いものには安い理由が。当たり前だが、2つの出来事から強く実感した。これは商品のジャンルがメジャーで需要が高いほど顕著だ。値段の理由を知っているか、気づけるか、知ろうとできるか。値段に惑わされず、自分にとっての価値を吟味できるかどうか。それが、物を買うとき、そして買った後にも大事になってくる。もちろんマイナーで専門的なものは値段がすべてではないし、お金にとらわれすぎるのも良くないが。

『買う理由が値段ならやめておけ。悩む理由が値段なら買え。』

みんな大好きツイッターでいつぞやに私のタイムラインに流れてきた名言だ。印象的だったので覚えていた。端的だが、物と値段に対しての本質をとらえているように思う。値段で判断することはつまり、人を外見で判断するようなものだ。値段で悩むということは、それだけ値段以外のことを知っているということだ。需要が高まればすぐにパチもん廉価版の似たり寄ったりが姿を現す現代で、値段に惑わされず物の本質を見極めるのは難しいのかもしれない。しかし、なんでもかんでもじゃなくていい。どうでもいいものにお金をかける必要はない。いつも使う物、趣味に関わるもの、命に関わるもの。そんなふうに自分だけの判断基準で、大事にしたいものにはいいものを選び抜く。じっくり向き合い慎重に。そして選び抜いたいいものには惜しみなくお金を払う。それこそ買い物の醍醐味ではないだろうか。

 

私は、好きなことを仕事にしたいと転職活動して、知識も経験もない世界に飛び込んだが、その裏には一年間積み立てておいた貯金があった。一番の原動力は自分の気持ちだったが、お金が行動を起こせる理由のひとつになっていたのは確かだ。「いざとなれば周りに何と言われようが積み立てていたお金を崩してやりたいことやるんだ。」そんな風に思えるだけで動き出す力が湧いた。

お金は大事だ。だから、恥と面倒を承知で返品しに行くし、スプーンひとつで落ち込むのだろう。私はこれからも懲りずにユニクロに行くし、よく知らずに高いものを買ってしまうこともあるだろう。たくさん買い物をして、失敗して学んで、センスを磨いて、本当にいいものにお金をかけたい。自分が大事にしたいものにお金をかけていきたい。それはいつか、お金じゃ買えないものになって、そして、お金じゃ買えないものをくれるから。