まえしまのブログ

いや、お恥ずかしい

男女間の友情は成立するかという不毛な議論におれが終止符を打つ

理系「いいか、男女間の友情は成立しない。そもそも男女間に友情なんてものは存在しない。人間には生物としての本能がある。男と女は別々の生き物ととらえたほうがいい。理性があるから分かり合えるが、それなしでは子孫を残すために手段を選ばないはずだ。男はなぜ浮気や不倫をするのか。それは本能に忠実だからだ。理性のさじ加減を誤っているというだけで。女性と接したとき、男は本能的に、反射的に、自分のパートナーとしてふさわしいか判断してしまう。潜在的か意識的かは各々異なるだろうが。セックスという行為は、男にとってはゴールで、女にとってはスタートなんだ。ヒトは頭がいいから、理性で物事を判断して制御できるが、結局は本能には逆らえない。男女間に芽生えるのは友情ではなく愛情だ。そしてそれは、新しく授かった命に受け継がれていく。愛情と友情をはき違えてはいけない。

 

文系「いやいや、男女間の友情は成立する。お互いに恋人やパートナーがいて、それでも会いたいと思う仲がある。性別を超えて、本心で話せる相手がいる。子孫を残すなんて大きな目的ではなく、誰かと心で繋がっていたいと望むのも人間の本能ではないのか。小さいころからの付き合いの同年代をを幼馴染というが、ドラマや映画でもない限り、それは美男美女ではないし、異性として意識することもないだろう。つまりそういう関係もある。仮に、それまで友達だった人を好きになったとする。異性として意識したとする。それは愛情かもしれない。しかし、友情とも呼べる。好きだと伝えても、関係が変わることなく続いていくのならば。思いを受け取った側が、決してその人に逃げないのならば。双方が、それでも友達でいたいと思うのならば。それは友情ではないのか。愛情と友情は紙一重だ。

 

おれ「よし、おれが終止符を打とう。まず、ここにある真実は男と女という事のみ。友情の解釈は各々違って当然なのだから、成立もクソもない。愛情と友情は大きく違うと言えば違うし、紙一重といえば紙一重。友情と愛情をどこまでと定義し線引きするのか。それが重要だが、所詮言葉の持つ力など、ヒトの本能には敵わない。果たして、定期的に会い、くだらないことを気兼ねなく話せる仲に生じるのが友情か。距離が離れていても、会える時間が無くても、心で繋がっている仲に生じるものか。触れ合い、絡み合い、隣で眠る仲に生じるのか。世の多くの人は、そんなことを考えずともわかっている。二つの感情は流動的かつ多様に移り変わり、また重なり合っている。明確な線引きなどありはしない。本質は、男女それぞれが、それらをどこでどう自覚するかということだ。その自覚した感情が、相手の感情や価値観と一致していれば、愛情もしくは友情となるのだろう。言葉で表現すればそういう事になるのだが、実際そこまで簡単にいかないのが人間の面白く、切なく、複雑なところではないか。悩んで考えて、正直になったり嘘をついたり、傷つけたり傷ついたり、自分を嫌いになったり好きになったりしながら生きていく。大事なのは、男女間に友情が成立しようがしまいが、相手の心をしっかりと見つめることだ。何を考えているのか、どう思っているのか。それを分かり合って、共に生きていくのだろう。言葉で何もかも決められるわけではない。心が、本当のことを知っている。」

彼女の家へ向かっている途中だった。彼女はおれの前を歩いている。重そうな荷物に「持つよ」と手を伸ばすと何も言わず拒否された。2,3歩離れられてしまった。前を歩く彼女が何を考えているのか、到底わからなかった。「なんで持たせてくれないの?」と聞いた。返事はない。

家に着いた。様子がおかしい。何も喋らず、そばにいるのにラインで写真が送られてきた。一瞬だけ見て、「楽しそう」と返した。写真の中の彼女が笑顔だったことだけ覚えている。突然彼女は歌い出した。瞳を真っ直ぐ見つめてきながら。スピッツ青い車だった。おれは歌詞の意味を考えて、見つめ返せなかった。サビだけ一緒に歌った。

何もなく、そのまま別々に寝た。

後日、改めて写真を見返すと、彼氏と思しき男とのツーショットだった。

 

っていう夢みた。恋すらしてないのになんで夢の中で失恋しなきゃならないのか脳みそに問い詰めてるとこ今。

いいこと言ったあとに「そしておれに彼女はいない。」を付け加えると説得力がなくなる。

RADWIMPS。彼らは最高だ。私が好きな曲のひとつにアイアンバイブルという曲があるのだが、彼らはその曲の最後で「ゼロを掛けないで」と歌っている。なんとも核心をついたことを歌っているではないか。私はもう何度もRADWIMPSに感動し、虜にされてきた。これについては語りだすと止まらないのでやめておくが、その「ゼロを掛けないで」という歌詞だけ引用させていただきたい。

私は発見してしまったのだ。具体から抽象へと展開するいいこと言ってる風の文章に「ゼロを掛けて」しまう魔法の言葉、いや、呪いのような言葉を。

 

「そしておれに彼女はいない。」

 

はぁ。思わずため息が漏れてしまう。こんな悲しい言葉があっていいのだろうか。まあしかし、事実なのだから仕方ない。この言葉が最大の効果を発揮するのは恋愛系のそれっぽい文章ではないかと思う。妄想なら自信があるので、早速使ってみることにしよう。くれぐれも、温かい目と穏やかな心で読んでほしい。

 

 

――――――――――――――――

 

恋人ができたらしたいことがある。次々思いつくが、残念なことに、消費されず溜まっていく一方だ。

その中のひとつに、『一緒にフェスやライブに行く』というのがある。「まあ、音楽が好きなら、ありきたりだよねw」と、どこかで小馬鹿にする自分がいるが、いやまて、よく考えろ大馬鹿野郎。ありきたりこそ最高だろうが。一緒にRADのライブに行って、一緒に拳を突き上げ、一緒に体を揺らしたいだろうが。寄せ合う身体と繋いだ手にドキドキしたいだろうが。こんなに人を好きになっていいんですかと叫びたいだろうが。

音楽好きの相手ならもちろんいいが、音楽がそこまで好きじゃなくてもいい。バンドをあまり知らない、ライブなんて行ったことがない。好きになった人がたまたまそうだった。そんな相手を、なんとかしてライブに誘う。当然乗り気じゃないが、こちらは必要とあればロックの素晴らしさについてプレゼンテーションを展開する覚悟だ。なんとか熱意が伝わり、一緒に行ってくれることになった。ライブ当日。なんだかんだ言って楽しそうにしているではないか。自分も、自分が行きたくて誘ったので存分に楽しんだ。好きな人と聞く好きなバンドのライブは最高で、きっと彼女もわかってくれただろうと思った。ところが、ライブが終わって家に帰り、興奮も冷めた頃、彼女は本音を言ってくれた。「やっぱり私には、ああいう場所はあんまり向いてないと思った。」・・・うーんそうか、と少し落ち込む。だが、彼女は顔を赤らめてこう続けるのだ。

「でも、楽しんでるあなたは素敵だった。もっとあなたが好きになった。だから今日は行ってよかった。」

 

・・・

 

・・・(照れが限界突破するまでの間)

 

 

「きゃ~~~~~~!!!!!!!なにそれ~~~~~~~~!!!!!!!君と夏フェスのやつ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」

「爆発してまうやろ~~~~~~~~~~!!!!!!!」

「好きだ~~~~~~~~~~~!!!!!!!」(強く抱きしめる)

 

 

 

 

・・・失礼興奮してしまった。あの〜、ね。妄想って、いいよね。タダだし。

ここからは真面目にいくので許してほしい。

 

この妄想から学ぶべきは、好き同士だからといって、恋人の好きなものを全部丸ごと好きになる必要はないということ。たとえ自分が理解できないものだとしても、それを好きでいる相手のことが好きならば。彼、もしくは彼女が、自分のことを好きでいてくれるならば。

価値観は人それぞれで、多少なりとも異なるのが当然だ。美しさもかっこよさも、楽しさも面白さも、全てを自分と同じように感じる人などいないだろう。価値観に大きな相違があっても、捉え方次第では好相性になりうる。そうやって人は人を知り、受け入れ、そして好きになる。

人に対しても物に対しても「好き」は無敵だが、夢中になりすぎて大切なものを見失ってはいけない。自分の気持ちを大事にできているか。相手をしっかりと見ているか。見失わないように、忘れないように、何度も自らに問いかけ言い聞かす。そうして恋人たちは、恋して、愛して、時に傷つけ合い、許し合い、支え合い、共に歩んでいく。いつか別れが来る時まで。

最後に、一番伝えたいことを言おう。

 

そしておれに彼女はいない。

二度寝を克服する方法を見つけた

朝が苦手だ。朝起きるのが辛い。一日始まるのが憂鬱とかじゃなくて、シンプルに眠い。なんというか、動き出せない。重力に勝てない。思えば私は、小学校のころから母親に大声で叫び起こされていた記憶があるし、中学も高校も、ギリギリに起きてギリギリに学校に着いていた。大学生活では顕著にそれが現れた。寝坊すっぽかし数知れず。大学まで徒歩2分の甘え。大学生活の半分くらい寝てたんじゃないかと思うくらいに寝てた。(いやさすがに盛った。)最近また一人暮らしを始めて、毎朝頑張って起きている。やはり朝はつらいが、ついに自分に合った起床方法を見つけたと思うので今回ははそれについてのお話を少々。

 

大学時代、朝起きれない理由はたくさんあったように思う。忙しいとはいえ、これまでより時間はあるし、なにしろ一人暮らしは自由だ。夜遅く、というか明け方まで起きていて、次の日朝から授業。そんなことがよくあった。深夜0時までのバイトも始めてしまったもんだから、次第に体が夜型になっていったのだろう。もうどこへいっても、寝坊キャラが定着してしまった。まあ事実なのだから仕方がない。申し訳ないと毎回思うが、そう言われることにも慣れてしまった。最近届いた卒業アルバムでも、前島のイメージはやはり「寝坊しそう」が第一位。みなよくわかっておる。正解。当然。

環境も大きく関わってはいるが、根本的にはやはり体質だと思う。母親によれば、私は小さいころから、寝るのが好きだったようだ。公園へ遊びに行きたがる姉と対照的に、座布団を引きずって誰もいない部屋へ行き、昼寝をしていたとのこと。曰く、「手のかからない子だった。」なるほど物はいいようだな。さすが母上である。まあ今こうしてちゃんと一人暮らしできているのだからオールOKだ。のびのびと育ててくれたことに感謝しよう。

さてそんな朝が苦手な私でも、スッと起きられる時がある。旅行やライブなんかの楽しみがあるときや、本当に大事な用事があるときだ。面接とかね。誰でもそうだろうが、なぜ起きれるのだろう。せっかく医療系の大学を出ているので、生理学的なとこから考えてみることにする。中途半端な知識でそれっぽく語るので、ところどころ語尾に(たぶん。)をつけながら読んでいただけるとありがたい。

人間には自律神経というものがあり、身体を臨戦態勢に持っていくとされる交感神経と、リラックスや休息の時に働く副交感神経がある。身体の諸器官に対してお互いに反対の効果を持つ。誰しも小さい頃、明日が楽しみで寝れないという夜は経験したのではないか。きっとそれは交感神経がビンビンな状態なのだ。眠りに落ちたとしても、浅い眠りだろう。だから目覚めるのも動き出すのもスムーズだ。つまり先にあげた、楽しみや大事な用があるときは、これにあたる。「お前、休んでる場合じゃねえぞ。起きろ。いくぞ。」交感神経先輩はそう言っている。しかし、特に気を張る必要もない時は、「もうちょい寝ときなよ。大丈夫大丈夫。休んどこ休んどこ。動き出すの疲れるよね。わかる。任せて。」という副交感神経様のささやきに負けてしまうのだ。もちろん私の、「本当に大事じゃないなら死ぬわけじゃないんだしオッケーオッケー」というマイペースな性格もかなり影響しているのは否めない。結果、低血圧で頭に血が回らないためボーっとしてしまう。そして重力に負け、横に倒れてしまうのだ。

私の場合は、目が覚めることは覚めるのだが、もう一度寝てしまう。いわゆる二度寝。これが問題だ。どんなに大騒音の目覚まし時計も、この二度寝神の前には無力である。慣れとは恐ろしい。目は覚めてて、起きなきゃと思うのに、どうしても耐えきれず横になってしまう。まだいける、まだ大丈夫と。こうして朝の貴重な食事と、整容の時間が削られていくのだ。本当に、ひとたび横になると一瞬で意識を失ってしまう。だからこれを克服するには、寝起きの頭と体を抗重力位に慣れさせることが必要だと考えた。

ではどうするのか。それは、動き出せるようになるまで、抗重力位を保つ。座って何もせずただボーっとするだけ。それだけだ。これが見つけた方法だ。座ってさえすればいいが、ひとつだけ、『絶対に横になってはいけない』というルールを自分に課す。横にならないことだけ守る。胡坐をかいたり正座したりして、この眠気はどうにかならないのかと血の回らない頭でボーっと考える。シンプルだがかなりきつい。朝が苦手な人ならばわかってくれるだろう。もちろん時間はかかる。全然眠さが引かず、Windows98の起動かってくらい時間がかかる。でも動き出せるときは来る。いまはまだ15分くらいかかるが、起きてすぐ動かなくていいんだと考えると朝に少し余裕が出てきた。二度寝の確率は下がってきた。長年この問題に悩まされてきたが、画期的な方法はなく、シンプルに眠気と真正面から向き合うしかないのだとようやく気付いた。結局は気持ち。自分との戦いである。

この朝が苦手だという話に限らず、苦手だからしょうがないと目を背けるのは非常にナンセンスだと思う。どんなことも、ちゃんと向き合えば必ず自分なりの方法は見つかるのだと学んだ。

 

以上が、ついに見つけた起床方法だ。二度寝せずに朝をゆっくりと過ごしているなんてそんなの前島じゃないと言われてしまうだろうか。安心してほしい。反動は週末に出る。

優雅で華麗、圧倒的無駄のなさ。そんなお手本のような二度寝を流れるように決めているので、一緒に二度寝をしてくれる、または先に起きていて「まだねてるのー?」とか言いながら起こしに来てくれる素敵な彼女を探し求めて三千里の旅に出ることにします。探さないでください。

だからあれほど、「ユニクロで買うのは下着とボトムスとUTだけにしろ」って言ったのに...また返品しに行くの?

このセリフ、何回自分に言っているかわからない。ユニクロで全身を固めても格好よく決まるのはイケメン+モデル体型だけだ。だが、好きな服の店やブランドはいくつかあっても全身をそれらで揃えるほどの情熱をファッションに注げない私は、都会にも田舎にも、どんな街にもあるユニクロによく行く。シンプル、ベーシック、スタンダード、機能的。そんな言葉が似合うユニクロである。さらにコストパフォーマンスもなかなかだ。いわゆるファストファッションいわれるジャンルだろう。ついつい買いすぎてしまう。なんだ、いいじゃんこれ。ユニクロでいいじゃんと。もちろんちゃんと試着してるし、しっかり迷って買ってる。しかしなぜだろう。せっかく買ったものを、私はよく返品しに行くのだ。なんとも愚かだ。今回引っ越してからも、ユニクロで色々と買っては返品した。学習しない男である。誤解を招く前に言っておくが、私はユニクロ推したいわけでも否定したいわけでもない。どんなものでもどんな値段でも、欲しいと思ったら買えばいいし、やっぱ違うと思ったら返品するなり売るなりそれは個人の自由だ。しかし、この一連の非常にめんどくさい流れから、あることを思ったのだ。

もう一つ聞いてほしい話がある。スプーンの話だ。引っ越してすぐ、仕事を始める前、新生活で必要な物品を揃えていた。近くにバカでかいホームセンターを見つけたので、そこでキッチン用品や洗濯用品などを買いにいった。最低限と言い聞かせてはいたが、それでも何度も来るのは面倒なので次々カートに放り込んでいった。その中のひとつにスプーンがあった。箸と並んで食事には欠かせないものだろう。大小それぞれ買ったが、値段がやけに張ったのを覚えている。「まっ、しゃーなしだな・・・はは・・・」心の中でそうつぶやいて、そこでの買い物は終わらせた。その後、100均ショップに用があって立ち寄った。そこで私は愕然としたのだ。おいおい、食器類、ここでいいじゃん。キッチン用品、ここでいいじゃん。まって、スプーン、大小とも2個100円で買えるじゃん。あぁ、なんてことだ。なぜ気づかなかったんだ。なぜ先に100均に行かなかったんだ。なんてバカだったんだ。もう買ってしまった。足は疲れ切っているし返品も馬鹿らしい。畜生。反省して次に生かそうにも、次の機会が来ることは果たしてあるだろうか。仮に引っ越すにしても、食器類を捨てることは当分ないだろう。畜生、ちくしょう・・・。そんな風に落ち込みながら帰宅した。たかがスプーンで、と思われるだろうか。いいんだ、小さい男で結構。しかし次の日にアイスクリームを食べたときのことだ。紙カップのものを小さいスプーンで食べた。いつも食べ終わったカップにスプーンをそのまま置いておくと、スプーンの重みでカップ自体がコテンと倒れてきてしまい気になっていたのだが、今回はそうはいかなかった。ちゃんと倒れずにいるではないか。私はすぐに気付いた。スプーンがいいから倒れないのだ。重心がすくう方にあり、持ち手の先にいくにつれて軽くなっている。サイズも計算されている。すばらしい。だから高かったのか。100均のスプーンだったら、倒れていたに違いない。そう思った。

お分かりいただけただろうか。身近で間抜けな2つの出来事である。ユニクロの例は、リーズナブル(私含めユニクロファンのために安いではなくリーズナブルと言わせていただく)がゆえに商品を見極められず返品に至った。スプーンの例は、高いものを買ってしまいもっと安く済むものがあったのにと落ち込むが、高い理由を実感して満足した。2つの例に共通するのは、値段が意味する自分にとっての価値を知ったということだ。値段には必ず意味がある。高いものには高い理由が、安いものには安い理由が。当たり前だが、2つの出来事から強く実感した。これは商品のジャンルがメジャーで需要が高いほど顕著だ。値段の理由を知っているか、気づけるか、知ろうとできるか。値段に惑わされず、自分にとっての価値を吟味できるかどうか。それが、物を買うとき、そして買った後にも大事になってくる。もちろんマイナーで専門的なものは値段がすべてではないし、お金にとらわれすぎるのも良くないが。

『買う理由が値段ならやめておけ。悩む理由が値段なら買え。』

みんな大好きツイッターでいつぞやに私のタイムラインに流れてきた名言だ。印象的だったので覚えていた。端的だが、物と値段に対しての本質をとらえているように思う。値段で判断することはつまり、人を外見で判断するようなものだ。値段で悩むということは、それだけ値段以外のことを知っているということだ。需要が高まればすぐにパチもん廉価版の似たり寄ったりが姿を現す現代で、値段に惑わされず物の本質を見極めるのは難しいのかもしれない。しかし、なんでもかんでもじゃなくていい。どうでもいいものにお金をかける必要はない。いつも使う物、趣味に関わるもの、命に関わるもの。そんなふうに自分だけの判断基準で、大事にしたいものにはいいものを選び抜く。じっくり向き合い慎重に。そして選び抜いたいいものには惜しみなくお金を払う。それこそ買い物の醍醐味ではないだろうか。

 

私は、好きなことを仕事にしたいと転職活動して、知識も経験もない世界に飛び込んだが、その裏には一年間積み立てておいた貯金があった。一番の原動力は自分の気持ちだったが、お金が行動を起こせる理由のひとつになっていたのは確かだ。「いざとなれば周りに何と言われようが積み立てていたお金を崩してやりたいことやるんだ。」そんな風に思えるだけで動き出す力が湧いた。

お金は大事だ。だから、恥と面倒を承知で返品しに行くし、スプーンひとつで落ち込むのだろう。私はこれからも懲りずにユニクロに行くし、よく知らずに高いものを買ってしまうこともあるだろう。たくさん買い物をして、失敗して学んで、センスを磨いて、本当にいいものにお金をかけたい。自分が大事にしたいものにお金をかけていきたい。それはいつか、お金じゃ買えないものになって、そして、お金じゃ買えないものをくれるから。

好きな女の子のタイプについて哲学的に考える男

大事なことは先に言うべきだ。仕事でもプライベートでも。

唐突に始めてしまったが、結論から入ったことについては後ほど触れよう。それにしても、言葉って難しい。特に日本語って難しい。いや別にほかの言語が扱えるわけじゃないんだけどさ。文章を書いているとほんとにそう思う。いままで書いたものでも、何度読み返してもしっくりこないところとか、伝わりにくいなと感じるところがたくさんある。日本語は、敬う言語、空気を読む言語、はっきり言わない言語。だから難しいのだろうと思う。

さて、転職活動をしていた時期に、好きな女の子のタイプをぼんやりと考えては妄想していた。なにをいきなり言い出すんだと思っただろうか。いや、違うんだ。そんな哀れみの目で見ないでくれ。暇だったんだよ。どうか聞いてほしい。あくまで、理想ではなくて自分が好きになるならこういう女の子だろうな、と言う話なのだが、かわいくて素直な人、もしくは素直でかわいい人という結論に至った。抽象的だが、具体的に話そうと思えばいくらでも恥ずかしい妄想はできるので、それは誰かとお酒を飲んだ時にでも話そうと思う。かわいいについては言及しないでいただきたい。好みは各々あれど、男は皆面食いなのだ。素直というのは、自分がそうだから。根が性悪でもクズでも、それよりも嫌なのは自分の気持ちに嘘をついているということだから。

まあいいんだそんなことは。大事なのはここからで、結論に至ったとき、「素直」と「かわいい」という2つの単語を入れ替えるだけで、言葉から感じるイメージがなんか違うな、と思った。内面と外面を表す二語なので、違って当然といえば当然なのだが、少し不思議に思った。だからちょっと考えてみた。・・・そう我こそは!

 

好きな女の子のタイプについて哲学的に考える男!!!どん!!!

 

まず、「かわいくて素直」の場合、かわいいことがもう前提としてある。それに追加して素直である、というような印象を受ける。数式でいうなら、かわいい+素直。しかし、「素直でかわいい」と言った場合、素直なことがかわいいというニュアンスも含んでいる。つまり素直≒かわいいもしくは素直→かわいい。「かわいくて素直」はなんだが欲張りすぎているイメージで、「素直でかわいい」だとより性格を重視しているようなイメージだ。二つの言い回しの微妙な違いをお分かり頂けるだろうか。私にはこれが、大きな違いのように思えた。私が結論付けた、伝えたいほうは前者だ。(欲張り。)つまり、こんな些細な順番だけでも、聞く人によっては大きくイメージが変わってしまう恐れがある。

ではもし、伝えたいことがたくさんあって、それを自分が思っているように分かってほしい時、何から先に言ったらいいのだろう。

それはもちろん、自分が大事だと思ったことからだ。だが冒頭でも言ったように日本語という言語は難しい。いくらでも曖昧に言えるし、時にはっきり言うことは失礼とされる。それに加えて遠回りしてへりくだって丁寧にして、相手に合わせて言葉を選びだしたらきりがない。だから大事なことを言えなくなってしまうことが何度もある。それゆえ分かってもらえなくて何度も説明したり、場合によってはトラブルが起きてしまう。

だからそんな時は言ってしまおう。大事なことだけでも、先にはっきりと言ってしまおう。なにを大事にするのか、自分の中で基準をしっかり持っていれば簡単なことだ。今回の記事の最初の一文を見てほしい。このブログの最初の記事を読んでほしい。

仕事では特にそうだろう。いい報告も、悪い報告も。前職で例えるならば、患者さんを転倒さてしまった場合。職責に報告しなければいけない。大事なのは状況でも憶測でも対策でもなく、転倒させたという事実だ。患者さんは無事かどうかという事実だ。それを先に伝えなければならない。その後で、いわゆる4W1Hと言われる状況を報告し、なぜ起きたのかという憶測、今後どうするのかという対策を考える。人はなるべく怒られたくないし、ミスしたことを報告するのは勇気がいる。でも、ここでは自分がどう処理されるかなんてことは重要じゃない。普通の常識があれば当然のようにできることであるが、これはプライベートでの対人関係でも応用が利くのではないか。

普段のいわゆる雑談では別に気にすることはない。答えのない話や、オチのない話、他愛もない話ほど楽しいものはない。しかし本当に大切な話や、真面目な話をするとき、自分の気持ちを告白するとき、そして相手の気持ちに応えるとき。そんな時はおそらく、自分の言いたいことや答えをしっかりと持っているはずだ。大事にすべきは事実と、自分の本当の気持ちで、それを伝えるのを先延ばしにしてもいいことはほとんどないように思う。ほら、「何でそれを先に言ってくれなかったの」とがっかりする顔が浮かんできやしないか。

大事な話なら、結論から先に言っちゃえばいいんだ。好きですとか惚れてますとか。そうは思わないとか最低だよとか。果たして、それができるか、日本人。

人はなぜ思い出の品を捨てられないのか

いやーあのさ、引っ越しってクッソめんどくさいよね。今回のおれは、実家から一人暮らし再デビューみたいな感じだったからまだよかったのかもしれないけど、これで家電と家具があったらとてもじゃないけどやってられなかったな。一人暮らしで引っ越しする人ってどうやって自分を律してるの?片付かなくない?部屋の棚、机の上、引き出しや押し入れの中。めっちゃ時間かかるよね。そんでさ、そういうとこ整理してると、卒アルとか、大学時代の色紙やら思い出の物やら、もういろいろ出てくるわけ。「うわーーー!!!なつかしーーー!!!」っつって。「大学最高だった戻りて~~~!!!」っつって。なあ。勝手に言ってろよって話。そんで気づいたら深夜になってて、「いかんいかん、今日はもうこんなもんでいいだろ(散らかしただけ)」っつって寝る。片付くわけねえわな。それでもまあ、なんとか引っ越しを終えて、今こうして新天地にきちゃってるから、なにごともやればできるんだよやれば。

 

さて。『思い出の品を捨てられないのはなぜだろう。』

一年間使った部屋はもともと姉の部屋だった。戻るから空けろというので、すべて空っぽにしなければいけなかった。進まない片づけをしていてふと思って、メモしておいたのだろう。いやまてまて、捨てられないのは当たり前でしょと、思うかもしれないが、当たり前なことに疑問を感じたのだ。そりゃ捨てられるわけないけど、なんで捨てられないんだろう。

恥を承知で、ためしにいくつか出てきたもの挙げてみよう。

 

高校の卒業アルバム。でた、正門からだけならすげえ綺麗な詐欺校舎。東館を映さんかい東館を。陸班の仲間と遅くまで松尾でよく走った。休み明けは真っ黒だったな。最後の高松祭は最高だった。あの雰囲気と高揚した気分は二度と味わえないのかな。みんな今どうしているのだろう。

服を片づけてある段ボールから出てきた、大学1年のころのクラスTシャツ。なんだこのへんてこなニックネームは。そうか、このときはまだ自分をさらけ出すのが恥ずかしかったのか。あの頃もっとお金や時間の使い方を知っていれば。好きな人への気持ちの伝え方を知っていれば。

同じ段ボールから出てきたバイト用のぼろぼろのTシャツ。店名は擦り切れそう。叩かれながら、怒られながら、火傷しながら、つまみ食いしながら、元気によく働いたなあ。働いて稼いだお金を貯めて、何を買ったっけ。どこへ行ったっけ。

クワガタのみんなから二十歳の誕生日にもらったビール模様の小冊子。表紙には「我らがまえしまりょう 生まれてきてくれてありがとう」の文字。いやいや、なんてことを言ってくれるんだ。こっちがありがとうだよ。倍返しだよ。一体おれのアパートに何回集まったんだろうか。いろんなことやったな。

ライブTシャツ、タオル、リストバンド、ラバーバンド、その他もろもろライブやフェスのグッズ。一体いくらかけたんだ。初めて行ったライブは?フェスは?誰といったっけ。出演したのはどんなアーティストだったっけ。そういえばフェス帰りは決まってあのラーメン屋だったな。いかん腹減ってきた。あのロック好きの店員さんは元気かな。 

 

・・・ほら。止まらん。やっぱり片付くわけないでしょこんなん。

 

ひとつ持っていくとあれもこれもときりがないので、引っ越し先にはそういった思い出の品と呼べるものは何も持ってこなかった。「荷物は生活できる最小限」がモットーだった。

でも、残してきた。生れたまちの育った家に、捨てずに、いつかまた見て思い出に浸るために残してきた。待てよ、当然のように言葉が出てきたが、思い出の品を捨てられない理由はまさにこれではないか。いつかまた思い出す時のためだ。

人間は忘れる生き物だ。そして時間は偉大で、ときに残酷だ。楽しかったことも、つらかったことも、笑ったことも泣いたことも、簡単に忘れてしまう。すげえ楽しかったのに、めっちゃ好きだったのに、本当に自覚しないうちに忘れてしまう。

つらかったことならむしろ忘れたいし忘れていい。忘れていても、きっと今に活かされてる。人間は無意識にそいうことができる能力があると思ってる。だから、つらい過去は自分ひとりでわざわざ意識的に振り返る必要はない。

でも、楽しかった思い出は、忘れたくない。そこに誰がいたか。その人は、その人たちは笑っていたか。自分はどんな気持ちだったか。忘れたことにすら気づけないなんて悲しすぎる。そこで、思い出の品を手に取る。鮮やかによみがえる記憶の中に、当時のままの友人が、仲間が、家族が、好きだった人が、見た風景が、感じた思いが、確かに存在する。思い出の品の中に、記憶の中に、大切な人たちが確かに存在する。その瞬間が楽しくて、幸せで、満ち足りた気分になる。また誰かに会いたくなるし、それが生きていく理由になる。明日からの原動力になる。だから思い出の品は捨てられない。たとえ忘れても、何度でも思い出すために捨てられない。いつか人生を終えて、棺桶の中に一緒に入れてもらうまで、決して捨てない。