まえしまのブログ

死にゃあせん。©︎母上

二度寝を克服する方法を見つけた

朝が苦手だ。朝起きるのが辛い。一日始まるのが憂鬱とかじゃなくて、シンプルに眠い。なんというか、動き出せない。重力に勝てない。思えば私は、小学校のころから母親に大声で叫び起こされていた記憶があるし、中学も高校も、ギリギリに起きてギリギリに学校に着いていた。大学生活では顕著にそれが現れた。寝坊すっぽかし数知れず。大学まで徒歩2分の甘え。大学生活の半分くらい寝てたんじゃないかと思うくらいに寝てた。(いやさすがに盛った。)最近また一人暮らしを始めて、毎朝頑張って起きている。やはり朝はつらいが、ついに自分に合った起床方法を見つけたと思うので今回ははそれについてのお話を少々。

 

大学時代、朝起きれない理由はたくさんあったように思う。忙しいとはいえ、これまでより時間はあるし、なにしろ一人暮らしは自由だ。夜遅く、というか明け方まで起きていて、次の日朝から授業。そんなことがよくあった。深夜0時までのバイトも始めてしまったもんだから、次第に体が夜型になっていったのだろう。もうどこへいっても、寝坊キャラが定着してしまった。まあ事実なのだから仕方がない。申し訳ないと毎回思うが、そう言われることにも慣れてしまった。最近届いた卒業アルバムでも、前島のイメージはやはり「寝坊しそう」が第一位。みなよくわかっておる。正解。当然。

環境も大きく関わってはいるが、根本的にはやはり体質だと思う。母親によれば、私は小さいころから、寝るのが好きだったようだ。公園へ遊びに行きたがる姉と対照的に、座布団を引きずって誰もいない部屋へ行き、昼寝をしていたとのこと。曰く、「手のかからない子だった。」なるほど物はいいようだな。さすが母上である。まあ今こうしてちゃんと一人暮らしできているのだからオールOKだ。のびのびと育ててくれたことに感謝しよう。

さてそんな朝が苦手な私でも、スッと起きられる時がある。旅行やライブなんかの楽しみがあるときや、本当に大事な用事があるときだ。面接とかね。誰でもそうだろうが、なぜ起きれるのだろう。せっかく医療系の大学を出ているので、生理学的なとこから考えてみることにする。中途半端な知識でそれっぽく語るので、ところどころ語尾に(たぶん。)をつけながら読んでいただけるとありがたい。

人間には自律神経というものがあり、身体を臨戦態勢に持っていくとされる交感神経と、リラックスや休息の時に働く副交感神経がある。身体の諸器官に対してお互いに反対の効果を持つ。誰しも小さい頃、明日が楽しみで寝れないという夜は経験したのではないか。きっとそれは交感神経がビンビンな状態なのだ。眠りに落ちたとしても、浅い眠りだろう。だから目覚めるのも動き出すのもスムーズだ。つまり先にあげた、楽しみや大事な用があるときは、これにあたる。「お前、休んでる場合じゃねえぞ。起きろ。いくぞ。」交感神経先輩はそう言っている。しかし、特に気を張る必要もない時は、「もうちょい寝ときなよ。大丈夫大丈夫。休んどこ休んどこ。動き出すの疲れるよね。わかる。任せて。」という副交感神経様のささやきに負けてしまうのだ。もちろん私の、「本当に大事じゃないなら死ぬわけじゃないんだしオッケーオッケー」というマイペースな性格もかなり影響しているのは否めない。結果、低血圧で頭に血が回らないためボーっとしてしまう。そして重力に負け、横に倒れてしまうのだ。

私の場合は、目が覚めることは覚めるのだが、もう一度寝てしまう。いわゆる二度寝。これが問題だ。どんなに大騒音の目覚まし時計も、この二度寝神の前には無力である。慣れとは恐ろしい。目は覚めてて、起きなきゃと思うのに、どうしても耐えきれず横になってしまう。まだいける、まだ大丈夫と。こうして朝の貴重な食事と、整容の時間が削られていくのだ。本当に、ひとたび横になると一瞬で意識を失ってしまう。だからこれを克服するには、寝起きの頭と体を抗重力位に慣れさせることが必要だと考えた。

ではどうするのか。それは、動き出せるようになるまで、抗重力位を保つ。座って何もせずただボーっとするだけ。それだけだ。これが見つけた方法だ。座ってさえすればいいが、ひとつだけ、『絶対に横になってはいけない』というルールを自分に課す。横にならないことだけ守る。胡坐をかいたり正座したりして、この眠気はどうにかならないのかと血の回らない頭でボーっと考える。シンプルだがかなりきつい。朝が苦手な人ならばわかってくれるだろう。もちろん時間はかかる。全然眠さが引かず、Windows98の起動かってくらい時間がかかる。でも動き出せるときは来る。いまはまだ15分くらいかかるが、起きてすぐ動かなくていいんだと考えると朝に少し余裕が出てきた。二度寝の確率は下がってきた。長年この問題に悩まされてきたが、画期的な方法はなく、シンプルに眠気と真正面から向き合うしかないのだとようやく気付いた。結局は気持ち。自分との戦いである。

この朝が苦手だという話に限らず、苦手だからしょうがないと目を背けるのは非常にナンセンスだと思う。どんなことも、ちゃんと向き合えば必ず自分なりの方法は見つかるのだと学んだ。

 

以上が、ついに見つけた起床方法だ。二度寝せずに朝をゆっくりと過ごしているなんてそんなの前島じゃないと言われてしまうだろうか。安心してほしい。反動は週末に出る。

優雅で華麗、圧倒的無駄のなさ。そんなお手本のような二度寝を流れるように決めているので、一緒に二度寝をしてくれる、または先に起きていて「まだねてるのー?」とか言いながら起こしに来てくれる素敵な彼女を探し求めて三千里の旅に出ることにします。探さないでください。

だからあれほど、「ユニクロで買うのは下着とボトムスとUTだけにしろ」って言ったのに...また返品しに行くの?

このセリフ、何回自分に言っているかわからない。ユニクロで全身を固めても格好よく決まるのはイケメン+モデル体型だけだ。だが、好きな服の店やブランドはいくつかあっても全身をそれらで揃えるほどの情熱をファッションに注げない私は、都会にも田舎にも、どんな街にもあるユニクロによく行く。シンプル、ベーシック、スタンダード、機能的。そんな言葉が似合うユニクロである。さらにコストパフォーマンスもなかなかだ。いわゆるファストファッションいわれるジャンルだろう。ついつい買いすぎてしまう。なんだ、いいじゃんこれ。ユニクロでいいじゃんと。もちろんちゃんと試着してるし、しっかり迷って買ってる。しかしなぜだろう。せっかく買ったものを、私はよく返品しに行くのだ。なんとも愚かだ。今回引っ越してからも、ユニクロで色々と買っては返品した。学習しない男である。誤解を招く前に言っておくが、私はユニクロ推したいわけでも否定したいわけでもない。どんなものでもどんな値段でも、欲しいと思ったら買えばいいし、やっぱ違うと思ったら返品するなり売るなりそれは個人の自由だ。しかし、この一連の非常にめんどくさい流れから、あることを思ったのだ。

もう一つ聞いてほしい話がある。スプーンの話だ。引っ越してすぐ、仕事を始める前、新生活で必要な物品を揃えていた。近くにバカでかいホームセンターを見つけたので、そこでキッチン用品や洗濯用品などを買いにいった。最低限と言い聞かせてはいたが、それでも何度も来るのは面倒なので次々カートに放り込んでいった。その中のひとつにスプーンがあった。箸と並んで食事には欠かせないものだろう。大小それぞれ買ったが、値段がやけに張ったのを覚えている。「まっ、しゃーなしだな・・・はは・・・」心の中でそうつぶやいて、そこでの買い物は終わらせた。その後、100均ショップに用があって立ち寄った。そこで私は愕然としたのだ。おいおい、食器類、ここでいいじゃん。キッチン用品、ここでいいじゃん。まって、スプーン、大小とも2個100円で買えるじゃん。あぁ、なんてことだ。なぜ気づかなかったんだ。なぜ先に100均に行かなかったんだ。なんてバカだったんだ。もう買ってしまった。足は疲れ切っているし返品も馬鹿らしい。畜生。反省して次に生かそうにも、次の機会が来ることは果たしてあるだろうか。仮に引っ越すにしても、食器類を捨てることは当分ないだろう。畜生、ちくしょう・・・。そんな風に落ち込みながら帰宅した。たかがスプーンで、と思われるだろうか。いいんだ、小さい男で結構。しかし次の日にアイスクリームを食べたときのことだ。紙カップのものを小さいスプーンで食べた。いつも食べ終わったカップにスプーンをそのまま置いておくと、スプーンの重みでカップ自体がコテンと倒れてきてしまい気になっていたのだが、今回はそうはいかなかった。ちゃんと倒れずにいるではないか。私はすぐに気付いた。スプーンがいいから倒れないのだ。重心がすくう方にあり、持ち手の先にいくにつれて軽くなっている。サイズも計算されている。すばらしい。だから高かったのか。100均のスプーンだったら、倒れていたに違いない。そう思った。

お分かりいただけただろうか。身近で間抜けな2つの出来事である。ユニクロの例は、リーズナブル(私含めユニクロファンのために安いではなくリーズナブルと言わせていただく)がゆえに商品を見極められず返品に至った。スプーンの例は、高いものを買ってしまいもっと安く済むものがあったのにと落ち込むが、高い理由を実感して満足した。2つの例に共通するのは、値段が意味する自分にとっての価値を知ったということだ。値段には必ず意味がある。高いものには高い理由が、安いものには安い理由が。当たり前だが、2つの出来事から強く実感した。これは商品のジャンルがメジャーで需要が高いほど顕著だ。値段の理由を知っているか、気づけるか、知ろうとできるか。値段に惑わされず、自分にとっての価値を吟味できるかどうか。それが、物を買うとき、そして買った後にも大事になってくる。もちろんマイナーで専門的なものは値段がすべてではないし、お金にとらわれすぎるのも良くないが。

『買う理由が値段ならやめておけ。悩む理由が値段なら買え。』

みんな大好きツイッターでいつぞやに私のタイムラインに流れてきた名言だ。印象的だったので覚えていた。端的だが、物と値段に対しての本質をとらえているように思う。値段で判断することはつまり、人を外見で判断するようなものだ。値段で悩むということは、それだけ値段以外のことを知っているということだ。需要が高まればすぐにパチもん廉価版の似たり寄ったりが姿を現す現代で、値段に惑わされず物の本質を見極めるのは難しいのかもしれない。しかし、なんでもかんでもじゃなくていい。どうでもいいものにお金をかける必要はない。いつも使う物、趣味に関わるもの、命に関わるもの。そんなふうに自分だけの判断基準で、大事にしたいものにはいいものを選び抜く。じっくり向き合い慎重に。そして選び抜いたいいものには惜しみなくお金を払う。それこそ買い物の醍醐味ではないだろうか。

 

私は、好きなことを仕事にしたいと転職活動して、知識も経験もない世界に飛び込んだが、その裏には一年間積み立てておいた貯金があった。一番の原動力は自分の気持ちだったが、お金が行動を起こせる理由のひとつになっていたのは確かだ。「いざとなれば周りに何と言われようが積み立てていたお金を崩してやりたいことやるんだ。」そんな風に思えるだけで動き出す力が湧いた。

お金は大事だ。だから、恥と面倒を承知で返品しに行くし、スプーンひとつで落ち込むのだろう。私はこれからも懲りずにユニクロに行くし、よく知らずに高いものを買ってしまうこともあるだろう。たくさん買い物をして、失敗して学んで、センスを磨いて、本当にいいものにお金をかけたい。自分が大事にしたいものにお金をかけていきたい。それはいつか、お金じゃ買えないものになって、そして、お金じゃ買えないものをくれるから。

好きな女の子のタイプについて哲学的に考える男

大事なことは先に言うべきだ。仕事でもプライベートでも。

唐突に始めてしまったが、結論から入ったことについては後ほど触れよう。それにしても、言葉って難しい。特に日本語って難しい。いや別にほかの言語が扱えるわけじゃないんだけどさ。文章を書いているとほんとにそう思う。いままで書いたものでも、何度読み返してもしっくりこないところとか、伝わりにくいなと感じるところがたくさんある。日本語は、敬う言語、空気を読む言語、はっきり言わない言語。だから難しいのだろうと思う。

さて、転職活動をしていた時期に、好きな女の子のタイプをぼんやりと考えては妄想していた。なにをいきなり言い出すんだと思っただろうか。いや、違うんだ。そんな哀れみの目で見ないでくれ。暇だったんだよ。どうか聞いてほしい。あくまで、理想ではなくて自分が好きになるならこういう女の子だろうな、と言う話なのだが、かわいくて素直な人、もしくは素直でかわいい人という結論に至った。抽象的だが、具体的に話そうと思えばいくらでも恥ずかしい妄想はできるので、それは誰かとお酒を飲んだ時にでも話そうと思う。かわいいについては言及しないでいただきたい。好みは各々あれど、男は皆面食いなのだ。素直というのは、自分がそうだから。根が性悪でもクズでも、それよりも嫌なのは自分の気持ちに嘘をついているということだから。

まあいいんだそんなことは。大事なのはここからで、結論に至ったとき、「素直」と「かわいい」という2つの単語を入れ替えるだけで、言葉から感じるイメージがなんか違うな、と思った。内面と外面を表す二語なので、違って当然といえば当然なのだが、少し不思議に思った。だからちょっと考えてみた。・・・そう我こそは!

 

好きな女の子のタイプについて哲学的に考える男!!!どん!!!

 

まず、「かわいくて素直」の場合、かわいいことがもう前提としてある。それに追加して素直である、というような印象を受ける。数式でいうなら、かわいい+素直。しかし、「素直でかわいい」と言った場合、素直なことがかわいいというニュアンスも含んでいる。つまり素直≒かわいいもしくは素直→かわいい。「かわいくて素直」はなんだが欲張りすぎているイメージで、「素直でかわいい」だとより性格を重視しているようなイメージだ。二つの言い回しの微妙な違いをお分かり頂けるだろうか。私にはこれが、大きな違いのように思えた。私が結論付けた、伝えたいほうは前者だ。(欲張り。)つまり、こんな些細な順番だけでも、聞く人によっては大きくイメージが変わってしまう恐れがある。

ではもし、伝えたいことがたくさんあって、それを自分が思っているように分かってほしい時、何から先に言ったらいいのだろう。

それはもちろん、自分が大事だと思ったことからだ。だが冒頭でも言ったように日本語という言語は難しい。いくらでも曖昧に言えるし、時にはっきり言うことは失礼とされる。それに加えて遠回りしてへりくだって丁寧にして、相手に合わせて言葉を選びだしたらきりがない。だから大事なことを言えなくなってしまうことが何度もある。それゆえ分かってもらえなくて何度も説明したり、場合によってはトラブルが起きてしまう。

だからそんな時は言ってしまおう。大事なことだけでも、先にはっきりと言ってしまおう。なにを大事にするのか、自分の中で基準をしっかり持っていれば簡単なことだ。今回の記事の最初の一文を見てほしい。このブログの最初の記事を読んでほしい。

仕事では特にそうだろう。いい報告も、悪い報告も。前職で例えるならば、患者さんを転倒さてしまった場合。職責に報告しなければいけない。大事なのは状況でも憶測でも対策でもなく、転倒させたという事実だ。患者さんは無事かどうかという事実だ。それを先に伝えなければならない。その後で、いわゆる4W1Hと言われる状況を報告し、なぜ起きたのかという憶測、今後どうするのかという対策を考える。人はなるべく怒られたくないし、ミスしたことを報告するのは勇気がいる。でも、ここでは自分がどう処理されるかなんてことは重要じゃない。普通の常識があれば当然のようにできることであるが、これはプライベートでの対人関係でも応用が利くのではないか。

普段のいわゆる雑談では別に気にすることはない。答えのない話や、オチのない話、他愛もない話ほど楽しいものはない。しかし本当に大切な話や、真面目な話をするとき、自分の気持ちを告白するとき、そして相手の気持ちに応えるとき。そんな時はおそらく、自分の言いたいことや答えをしっかりと持っているはずだ。大事にすべきは事実と、自分の本当の気持ちで、それを伝えるのを先延ばしにしてもいいことはほとんどないように思う。ほら、「何でそれを先に言ってくれなかったの」とがっかりする顔が浮かんできやしないか。

大事な話なら、結論から先に言っちゃえばいいんだ。好きですとか惚れてますとか。そうは思わないとか最低だよとか。果たして、それができるか、日本人。

人はなぜ思い出の品を捨てられないのか

いやーあのさ、引っ越しってクッソめんどくさいよね。今回のおれは、実家から一人暮らし再デビューみたいな感じだったからまだよかったのかもしれないけど、これで家電と家具があったらとてもじゃないけどやってられなかったな。一人暮らしで引っ越しする人ってどうやって自分を律してるの?片付かなくない?部屋の棚、机の上、引き出しや押し入れの中。めっちゃ時間かかるよね。そんでさ、そういうとこ整理してると、卒アルとか、大学時代の色紙やら思い出の物やら、もういろいろ出てくるわけ。「うわーーー!!!なつかしーーー!!!」っつって。「大学最高だった戻りて~~~!!!」っつって。なあ。勝手に言ってろよって話。そんで気づいたら深夜になってて、「いかんいかん、今日はもうこんなもんでいいだろ(散らかしただけ)」っつって寝る。片付くわけねえわな。それでもまあ、なんとか引っ越しを終えて、今こうして新天地にきちゃってるから、なにごともやればできるんだよやれば。

 

さて。『思い出の品を捨てられないのはなぜだろう。』

一年間使った部屋はもともと姉の部屋だった。戻るから空けろというので、すべて空っぽにしなければいけなかった。進まない片づけをしていてふと思って、メモしておいたのだろう。いやまてまて、捨てられないのは当たり前でしょと、思うかもしれないが、当たり前なことに疑問を感じたのだ。そりゃ捨てられるわけないけど、なんで捨てられないんだろう。

恥を承知で、ためしにいくつか出てきたもの挙げてみよう。

 

高校の卒業アルバム。でた、正門からだけならすげえ綺麗な詐欺校舎。東館を映さんかい東館を。陸班の仲間と遅くまで松尾でよく走った。休み明けは真っ黒だったな。最後の高松祭は最高だった。あの雰囲気と高揚した気分は二度と味わえないのかな。みんな今どうしているのだろう。

服を片づけてある段ボールから出てきた、大学1年のころのクラスTシャツ。なんだこのへんてこなニックネームは。そうか、このときはまだ自分をさらけ出すのが恥ずかしかったのか。あの頃もっとお金や時間の使い方を知っていれば。好きな人への気持ちの伝え方を知っていれば。

同じ段ボールから出てきたバイト用のぼろぼろのTシャツ。店名は擦り切れそう。叩かれながら、怒られながら、火傷しながら、つまみ食いしながら、元気によく働いたなあ。働いて稼いだお金を貯めて、何を買ったっけ。どこへ行ったっけ。

クワガタのみんなから二十歳の誕生日にもらったビール模様の小冊子。表紙には「我らがまえしまりょう 生まれてきてくれてありがとう」の文字。いやいや、なんてことを言ってくれるんだ。こっちがありがとうだよ。倍返しだよ。一体おれのアパートに何回集まったんだろうか。いろんなことやったな。

ライブTシャツ、タオル、リストバンド、ラバーバンド、その他もろもろライブやフェスのグッズ。一体いくらかけたんだ。初めて行ったライブは?フェスは?誰といったっけ。出演したのはどんなアーティストだったっけ。そういえばフェス帰りは決まってあのラーメン屋だったな。いかん腹減ってきた。あのロック好きの店員さんは元気かな。 

 

・・・ほら。止まらん。やっぱり片付くわけないでしょこんなん。

 

ひとつ持っていくとあれもこれもときりがないので、引っ越し先にはそういった思い出の品と呼べるものは何も持ってこなかった。「荷物は生活できる最小限」がモットーだった。

でも、残してきた。生れたまちの育った家に、捨てずに、いつかまた見て思い出に浸るために残してきた。待てよ、当然のように言葉が出てきたが、思い出の品を捨てられない理由はまさにこれではないか。いつかまた思い出す時のためだ。

人間は忘れる生き物だ。そして時間は偉大で、ときに残酷だ。楽しかったことも、つらかったことも、笑ったことも泣いたことも、簡単に忘れてしまう。すげえ楽しかったのに、めっちゃ好きだったのに、本当に自覚しないうちに忘れてしまう。

つらかったことならむしろ忘れたいし忘れていい。忘れていても、きっと今に活かされてる。人間は無意識にそいうことができる能力があると思ってる。だから、つらい過去は自分ひとりでわざわざ意識的に振り返る必要はない。

でも、楽しかった思い出は、忘れたくない。そこに誰がいたか。その人は、その人たちは笑っていたか。自分はどんな気持ちだったか。忘れたことにすら気づけないなんて悲しすぎる。そこで、思い出の品を手に取る。鮮やかによみがえる記憶の中に、当時のままの友人が、仲間が、家族が、好きだった人が、見た風景が、感じた思いが、確かに存在する。思い出の品の中に、記憶の中に、大切な人たちが確かに存在する。その瞬間が楽しくて、幸せで、満ち足りた気分になる。また誰かに会いたくなるし、それが生きていく理由になる。明日からの原動力になる。だから思い出の品は捨てられない。たとえ忘れても、何度でも思い出すために捨てられない。いつか人生を終えて、棺桶の中に一緒に入れてもらうまで、決して捨てない。

「優しい人がいいかなあ。」「『優しい人』か。君は優しさについて本気で考えたことがあるか」「えっ」「優しいとはどういうことか、本気で、考えたことが、あるのかと聞いている」「えっえっ」

ゴールデンでウキウキパーリナイな5月が終わり、祝日のないじめじめとした6月がやってくる。皆様いかがお過ごしだろうか。久しぶりのブログだ。近況を報告しておくと、自分の好きなことを仕事にしたいと転職活動をして、無事転職が決まった。引っ越しが終わり、生活できるようになり、仕事をし始めて、ネット環境が整ってやっとブログが書けるようになった。大変だったが、無敵の好きを携えてここまでこれた。ようやくスタートラインに立てた。そんなこんなで一か月以上、思いついては書く時間がなく温めているネタがたくさんあるが、その中でも一番古いものからいこうと思う。メモ帳には、「優しさとはなんだろう」というタイトルをつけていたのだが、これでは普通すぎて誰も読んでくれないだろうと思った。せっかくの久しぶりのブログ、ぜひ読んでいただきたい。そこで、色々なとこからインスピレーションを得て、会話調のインパクトあるタイトルにしておいた。もう少し距離を詰めようという時の男性陣からの「どんなタイプが好きなの?」という問いに女性側が困りつつも典型的に答え、理系カチカチ頭の男(でもイケメン)に火がついて持論を展開しようとする場面だ。女性側はドン引きもしくはキョトンであろう。(すべて私の頭の中の妄想です。)

広辞苑で『優しい』という言葉を引けば、いくつも意味が出てくる。頭の良い人たちが綺麗にまとめた答えが出てくる。しかし、ここで考えることをやめたくはない。一つ前の記事でも書いているが、考えることが楽しい。楽しいから考える。そして私は考えたことを表現する一つの手段として、ブログという形を選択したまでだ。文章にしていると、どんどん新たな考えや言葉が出てきて、なんというか無敵になった気分になる。それがとても好きだ。だから私は文章で表現する。

ありがたいことに、私は優しいと言ってもらえることがある。親には「お前は優しすぎる」と言われる。そのあとに「優しいのになんで彼女できないんだろうね」と続くのだが、まあそれは今回はどうでもいい。いやあ、嬉しいことである。私は優しい人が好きだ。優しい人になりたい。私は基本的にめったに怒らないし、頭ごなしに他人を否定することはしない。どんな人にだって大事にしているものがあって、理解もなしに決めつけられるのは絶対に嫌だろうから。「自分がされて嫌なことは人にするな。」小さいころ親に教わったこの当たり前のような言葉が、私の優しさの源になっているように思う。人と接していて何か迷った時、分からなくなったときはいつも、この言葉に立ち返ってきたし、これからもそうするつもりでいる。

さて、こんな答えのなさそうなテーマで文章を書こうと思ったのにはあるきっかけがある。わがマブダチ(男)と二人で飲んだ時のことだ。彼とは久々に会って酒も進んだ。彼は積りに積もった話をしてくれた。嫌われるのも非難されるのも覚悟で、かなりぶっちゃけた話をしてくれた。それぐらいなんでも話せる間柄だ。私は優しいから、決して否定せず、「きっと何か理由があるんだろう。おれには分からない感情があるんだろう。」と思った。そんな風にコメントした。しかし彼はそれを聞いて、私にこう言ったのだ。「違うんだ、もっと怒っていい。叱ってくれ。」「それは優しさじゃない。不干渉っていうんだ。」「お前だから話したんだ。お前がどう思うか聞かせてくれ。」言われてはっとした。今は、彼に対しては、嫌われることを恐れて本当の自分の気持ちを隠すのは優しさではない。親しい間柄だからなおさらだ。そこでようやく、自分の考えを正直に伝えることができた。さすがわがマブダチである。優しさは、時に大きな勇気がいるのだ。

 

そこでひとつの疑問が生まれた。じゃあ、そもそも優しさとはなんだろうか。

 

なんとも、出口のない樹海に迷い込んだような気分になるテーマだ。まあ私はこういうことをよく一人で考えていて、それが好きなのでまったく気にならない。私が思うに、優しさにはいろいろな形がある。どんなことに優しいと感じるかは人それぞれで、誰に対してかはもちろん、タイミングやその時の気分や感情も大きく関わるだろう。どんな時に優しいと感じてきたか思い返してみながら、三つ考えてみた。

まず、勇気がいる優しさ。先にあげたマブダチとの例である。人間は変化を恐れる生き物だ。嫌われるのではないか、関係が変わってしまうのではないかと自分の気持ちを偽ってしまったり、本当の気持ちを隠してしまったりすることがある。それでいい時もある。相手との心理的な距離が遠い時や、深い関係ではない時は、すべてを正直に話す必要はない。しかし、付き合いが長くなるほど、相手のことを知っていくことができる。どんな言葉で、どんなタイミングで話せばいいのかわかってくる。そういう相手には、勇気を出して自分の本当の気持ちをストレートにぶつけていくのが優しさではないだろうか。

二つ目は態度で示す優しさ。これは逆に、さっき出てきた相手との心理的な距離が遠い時や、深い関係ではないときに感じる優しさだと思う。例を挙げるならば、丁寧な言葉遣い、笑顔、さりげない会釈、間や雰囲気など。ずっと付き合っていく人との初対面や、見ず知らずで二度と会わないような人と交わす会話。そんな場面でのちょっとした態度や立ち振る舞いで「あ、優しい人だな」と感じることがたまにある。

そして三つ目が何もしない優しさ。よく聞くが、実はこれが一番難しくてやっかいではないかと思う。何もしない人は無関心で不干渉だと感じる。普通なら。つまりこれは仲の良い間柄で多いのだろう。やっかいなのは、その人のことをよく知らない場合は、優しいと感じづらいということ。優しいから何もしない、言わない人が、「人見知り」や「コミュ障」とかいう言葉でくくられてしまう。無関心で不干渉だと決めつけられてしまう。なんということか。その人のことを知ろうともせず、言葉の持つ負のイメージで人を判断しないでほしい。そういう人たちはきっと人一倍周りの人たちのことを考えている。大体コミュ障ってなんやねんいい加減にせいドアホ!!!言葉で決めつけんな!!!言葉で逃げんな!!!心を見ろやぁ!!!・・・失礼、興奮してしまった。落ち着こう。まあまとめると、何もしない優しさと無関心・不干渉の違いは、相手をしっかりと見て考えているのか、自分のことばかり考えているのかだと思う。

三つすべてに共通するが、優しいというのは相手がいて初めて生まれる感情だ。他人の気持ちはその人がどれだけうまく言い表しても、態度で示しても主観的に感じることはできない。まあ、テレパシーが使えたり、脳を覗き込めるものが開発されたりすれば話は別だが。とにかく、人がなに考えてるかなんて、本当のところはわからない。そんな正体のしれない他人の気持ちを、推し量り、思いやる心の力。優しさの源はそこにある。そして本当の意味で優しい人は、自分の気持ちを隠すことはしても、決して偽ることはしない。時に相手や状況に合わせた言葉に言い換えて、自分の本当の気持ちを伝える。そんな風にして接してくれた時、私は優しいと感じる。優しさとは、相手を見て、感じて、考えること。そして自分の気持ちを偽らないこと。私はそう思う。

最後に、一つ主張したいことがある。私は、優しいと感じたらすぐお礼を言いたい。優しい人は決して「優しくしてやった」とか「私優しいでしょ」とか上からものを言わず、ただただしれっと優しい。自分が優しいことを自覚していない。もっと感謝されていい。せめて気づいてもらうべきだ。だから私は、優しいと感じたらお礼をしっかりしようと思う。「すいません」ではなく、素直に「ありがとう」と言っていきたい。優しい人は、謝ってもらいたいくて優しいのではない。優しい人はすいませんなんて謝られたら、謝罪なんてさせてしまって申し訳ないと思ってしまうかもしれない。そうすると謝罪の連鎖が起きてしまう。それは悲しい。悲しいのは嫌いだ。それよりも、感謝の連鎖をつくりたい。プラスの、ポジティブな感情を大事にしていきたい。

わき毛の存在意義から生きる意味を考える

転職活動をしてきた。履歴書を持って都会の会社に行ってきた。履歴書の特技欄には、理学療法士という仕事をそれなりに1年間やってきて、培ったものを書いた。ブラインドタッチと、雑談と、マッサージである。理学療法士をしていれば当然のようにやっていたことであるが、とらえ方次第では特技になるのでは?と思って書いておいた。その中の雑談。今日は雑談をする。転職活動のついでと言っては失礼だが、会いたい人がたくさんいたので、会ってきた。雑談なんてそこで死ぬほどできたが、なかなかどうして、自分の近況を話して、みんなの近況を聞いていると、くだらない話をする時間もあっという間に過ぎてしまった。そこで、誰にも話す機会なくずっと温めていた話をしようと思う。「わき毛」という一見、いや一聞気の抜けてしまいそうな言葉から、生きる意味を考えるというものだ。

 

さて、改めてむちゃくちゃなタイトルだな。我ながら。まあ、タイトルに負けないようにむちゃくちゃ書いていきたいと思う。

わき毛とはなんだろうか。わき毛の存在意義とはなんだろう。なさそうだよね。わき毛と言えばムダ毛みたいな風潮あるし。女性は大体剃ってるもんだよね。でも、でもね。これでおしまいにすると面白くないじゃない。生きる意味もそう。答えなんてなくていいんだけど、無くても人は生きていけるけど、考えちゃうでしょ。おれはなんのために生きているんだろうって。じゃあちょっと考えてみよう。まずはわき毛がなんで存在しているのかから考えてみよう。

わき毛。腋の下に生えている毛。そもそもなんで人間に毛があるのだろう。うーん、人体にとって大切な脳や臓器を守るため。体温を調節するため。・・・だめだこのくらいしか思いつかない。生理学を学んだのが遠い昔に感じる。まあこれが正しいとして話を進めていこう。胸やお腹に毛はないけど、臓器を守るために肋骨があり、筋肉があり、脂肪がある。脳は頭蓋骨に守られ、さらに毛髪で守られている。目の上には眉毛があり生殖器には陰毛がある。なにかを守るためや効率を上げるために「毛」という形態が発達するのは臓器の中の構造でも同じで、絨毛とか繊毛とか、なんやかんやあった気がする(忘れた。)じゃあ、腋には何があるだろう。そもそも守るべきなんだろうか。

腋は人体の構造的に肩で守られているではないか。大学1年生のころ人体構造学の初回の授業でDeltoidを学んでデルパンとか言って肩パンチをやりあった記憶がある。いくらパンチしても痣ができるくらいで、血が止まったり指が動かなくなったりはしなかった。しかし待てよ、それ以上に守る必要があるということなのだろうか。熱中症で倒れたときは腋窩を冷やすし、体温は腋窩で図るのが一般的だ・・・

少し話をそらそう。指紋認証やタッチパネル。今スクロールしているその指が、なぜ触れるだけで反応できるか不思議に思ったことはないだろうか。私はある。曖昧な記憶だが、たしか生体が発する微弱な電磁波だかなんだか、とにかくエレクトリックななにかで反応しているのだ。これを可能にしているのは、神経が通っているとか、血が通っているとか当たり前のことだ。わき毛が守っているものは、まさにこれではないのか。

神経と血管。正式な名前はググるのが面倒なのでやめておく。腋の下には指先まで枝分かれしながら伸びる、それらが通っている。脇の下には骨がない。筋肉もほとんどない。薄い脂肪と皮膚があるのみだ。腕が守ってくれるとはいえ、肩関節には可動域があるから、ノーガード状態になってしまうことがある。そこでわき毛の出番だ。大切な神経と血管を守り、体温を調節している。うん、こんなところにしておこう。これが私なりのわき毛の存在意義だ。いまキーボードを打てるのは、わき毛が神経と血管を守ってくれているからなのだ。これからは、わき毛がはみ出ていたり、剃り残されていたり、臭ったりしても少しだけ許せる気がしてきた。少しだけね。

 

さて生きる意味である。23歳にしてそんなことわかるわけないし、分からなくていいし、極論一生わからなくていい。でも考えるのは楽しい。わき毛について考えていると、曖昧になっていたけど断片的によみがえってきた生理学の知識とか、人体構造学のこととか、タッチパネルの話とか、どんどん出てきた。楽しいから考えるのか、考えるから楽しいのか、まあどっちでもいいが、とにかく考えてみよう。生きる意味って、なにも壮大なことを言っているわけではない。今日仕事を終えたら好きな人に会えるからとりあえず今日は生きるとか、好きなものを食べるためとか、お金を稼ぐためとか、人それぞれ、大なり小なりあるものだ。まあ生きる理由とも言い換えることができる。わき毛が大事なものを守っているように、自分にとって大事な人やものを守ることが生きる意味になるかもしれない。もう少し先の話になりそうだが。

たくさんあるが、今の私にとっての一番大きい生きる意味は、自分の「好き」を追求することだ。人に対しても、仕事に対しても、遊びに対しても。「好き」無敵論というブログを書いたが、本気で無敵だと思っている。「好き」に勝る原動力はないと思う。私は心を病んで、「死」というものに一度本気で向き合った。今は死ぬことが一番怖いのだが、当然人はいつか死ぬ。今苦しくても、楽しくてもいつか死ぬ。世間から見放されても、親に怒られても、恥をかいても、笑われても、100年後には言ったほうも言われたほうもみんな死んでる。それだけは確かだ。だったら、だ。それなら、自分の好きなように生きたいじゃん。何言われようが関係ないじゃん。それで死ぬわけじゃないじゃん。

漫画ONE PIECE第1巻の、主人公ルフィのセリフにこんな名言がある。

「おれはさ 海賊王になるんだ!!!」「おれがなるって決めたんだから その為に戦って死ぬんなら別にいい」

私もルフィに見習って、名言を残しておこう。

「おれは好きなように生きる。おれがそうするって決めたんだから、その為に生きて死ぬんなら別にいい」

 

いやークッセーなー。クッセー。クセェついでに、死ぬ間際に言いたいセリフも書いておく。

「生きる意味なんてわからなかった。でも楽しかった、疲れた。」

ペアルックについての一考察

現代は情報社会だ。便利な時代だが、時として見たくもない情報に触れてしまうことがある。何を信じたらいいのか、何が本当なのかわからなくなってしまうことがある。表現が自由な分、自制心や責任という概念が生じてくる。さて、私が見たくない情報のひとつに、「ペアルックをしているラブラブなカップル」というのがある。見たくなければ見なければいいという意見に対して反論しておこう。「ペアルックをしているラブラブなカップル」、長いのでペラプルと略させていただく。ペラプルなんて、高校生じゃないんだからそんなに見ないでしょ、と侮るなかれ。リツイートされたりなんだりでツイッターのタイムラインに登場する見知らぬアカウント。そのプロフィール画像。ラインの友達のホーム画面。もはやSNSではないが、田舎の高校周辺や都会に行けばそこら辺を歩いている若いカップル。ペラプルは神出鬼没なのだ。したがってペラプルは、見たくなくても見てしまう情報なのである。なぜ見たくないのか語る前に、まずペアルックとは何なのか、前島の脳内広辞苑を引いてみよう。

 

ぺあるっく【ペアルック】(名)・・・恋人同士が、全身をお揃いのアイテムで着飾ること。またその状態。本人たちは正気とは思えず、相手のことを好きすぎて世間の目という概念が頭から消え去っている可能性がある。前島の場合、見ていて大変不快な気分になる。

 

・・・やべえな。前島の脳内広辞苑やべえな。独断と偏見にまみれたディスり辞書かよ。前島の場合とか言っちゃってるよ・・・

上記のような感想を持ったあなた。あなたです。ありがとう。十分褒め言葉ですよ。あのねえ、長いこと恋人がいないと、脳内もそりゃおかしくなりますって。表に出してないだけですよ。わかってよ。勘弁してほしいね本当に。

さて、なぜペアルックを見たくないのか。理由はもう、考えれば止めどなく出てくるが、なんとか根本の2つに絞った。

まず、うらやましい。いや誤解しないでほしい。決して自分がペアルックをしたいということではない。ペラプルをみると、一発でわかるのだ。そこまで心を許し合う関係であり、お互いを認め合っている関係なのだと。世間の目や、恥じらいと言う感情を越えるほどに好きに正直になれる関係なのだと。ああ、ただただうらやましい。畜生。

そして次に、ダサい。これはペアルックをするという行為自体に向けた感情なのだが、非常にダサい。私はオシャレというものに人並み程度に興味はあるつもりだが、その観点からの考えである。恋人同士とはいえ、なぜ同じ格好をするのか。女性は女性らしい、男性なら男性らしい格好というものがあるはずだ。好きな人には、その人が一番好きな格好をしていて欲しいし、それが一番魅力的だ。私の場合、どんなに特別なシチュエーションだったとしても、それは決して男である自分と同じ格好ではない。いやあ、非常にダサい。

 

はぁ、満足した。ディスるだけディスってなんだが、満足した。これでペラプルを見ても多少は心を穏やかに保つことができる。負の感情を出したので、ここからは正の感情とでもいうべき私の妄想にお付き合いいただきたい。ペアルックについて考えるうち、ペアルックとまではいかないが、この先恋人ができたらやってみたいことができたのだ。

全身は嫌だが、どこか一つだけ、アイテムを合わせるというものだ。シャツとか、デニムとか大まかなカテゴリーでもいいし、青系のチェックシャツとか具体的になってもいい。周囲から見たらわからない程度のアイテムでもいい。アナログ式の時計とか、白い靴下とか、ブランド問わずとにかくスニーカーと呼べるもの、とか。アイテムじゃなくても、服装の大雑把なテーマでもいい。今は春だから、春を意識した服装とか、黒いアイテムを入れた服装とか、とにかく自分が思うカジュアルな服装とか。そうして、出かけようとして服を選ぶたび、同じアイテムやテーマで服を選ぼうとしている相手のことを考える。その瞬間、脳内にその相手が出現する。確かに存在する。どんな反応をするだろうか、相手はどんな格好だろうかと想像する。そして会ったとき、まず一番にそれを話題にできる。このデニムに合わせるために新しい服を買いにいったんだよ、とか、へえ、あなたにとっての春はそんなイメージなのね、とか。それで褒めあえたら最高だ。付き合いたてのラブラブな時期限定でもいい。そのうち飽きてきて、時間が経ってふと思い出したころにそういえばあんなことやってたね、久しぶりにやってみる?なんてなるのもいい。そうやってファッションを楽しんでデートや旅行に行きたい。きっと楽しい。

もしかしたら、これが私なりのペアルックなのかもしれない。おそらく世のカップル達は、こういうことを無意識のうちにやっているのだろう。そうして気持ち以外でも繋がりを持っているのだろう。うーん、よくわからなくなってきた。何を信じたらいいのか、何が本当なのかよくわからなくなってきたところで終わりにしておく。ペアルック、悪くないな。